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日本バブル経済 ~その1~


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1980年代後半の日本に空前に起こった日本バブルについて解説しようと思います。

 

遡る事、今から51年前の1973年第一次石油ショックにより世界中の人々は、突然、物価の上昇と不況に同時に襲われました。

 

この問題を解決するため、アメリカ大統領ジミー・カーターを中心に、日米独の3カ国が協調しました。大規模な財政刺激政策を行い、世界経済を回復させようとしました。

しかしわずか5年後の1979年、第二次石油ショックにより再び不況に突入にしました。

日本は単独で大規模な財政拡張計画を採用しました。

その結果、日本はいち早く第二次石油ショックから抜け出しましたが、その3年後に国債残高はGDPの35.2%まで膨れ上がることになりました。

 

しかし日本以外の先進国、特にアメリカは、1970年代から続くスタグフレーション、

激しい不況とインフレに苦しんでいました。

 

日本でバブルが起きたのは、1986年12月~1991年2月までの株式や不動産を中心にした資産の過度な高騰、経済拡大の期間です。

 

1980年代後半には、テレビ等のマスメディアの必要以上に毎日繰り返された不動産価値の宣伝により地価は異常な伸びをみせ、当時の東京都の山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買えるという算出結果となるほど日本の土地価格は高騰し、日経平均株価は1989年12月29日の大納会では、史上最高値38,957円44銭を付けるなどし、資産価格のバブル化が起こっていました。

 

最初に日本のバブルに関わった人たちを簡単に紹介します。

 

バブルに関わった人たち

その1:汚職発覚でツライ目にあった日本の首相達

中曽根 康弘 第71-73代内閣総理大臣

当時、国が運営していた国鉄(現JR)・電電公社(現NTT)・日本専売公社(現JT)の3社を民営化した内閣総理大臣です。

当時のアメリカ大統領レーガンとは「ロン・ヤス関係」と呼ばれるほど仲良しで、アメリカと親密な関係を築きました。

バブル景気のきっかけを作り、日本の歴史史上最大級の汚職が発覚し、総理大臣職を辞職しました。

 

竹下 登 第74代内閣総理大臣

昭和最後の内閣総理大臣です。中曽根内閣時代に税金を一手に管理していた大蔵省のトップ、大蔵大臣を務めました。

芸能人DAIGOさんのおじいちゃんです。

中曽根前首相の汚職発覚後、前首相の後押しもあり後任で内閣総理大臣になりました。中曽根前首相の指示で消費税を導入しました。

国民からブーイングを浴びる中、実は中曽根前首相と同じく汚職に関わっていたことが発覚したこともあって辞職しました。

 

宮澤 喜一 第75代内閣総理大臣

2024年現在、官僚出身の最後の内閣総理大臣です。

酒豪で有名で、バブル崩壊時に首相でした。

バブル崩壊時に税金を使って潰れそうな銀行を救うことを主張していましたが、その政策自体が国民から反発を買うことが確実なこと、さらに中曽根首相と一緒に政治汚職に関わっていたこともあり、同じ自民党の仲間や国民から猛反発され、総理の座を譲り渡すことになりました。

しかしその後、小渕内閣発足時、再び大蔵大臣になり、バブルの後処理を頑張ることになりました。

 

その2:大不況のアメリカ経済を何とかしようとした大統領

ジミー・カーター第39代アメリカ合衆国大統領

アメリカとロシアの冷戦中に大統領となりました。

影の薄い大統領として有名でした。

 

ロナルド・レーガン 第40代アメリカ合衆国大統領

元映画俳優で、めずらしい離婚歴のある大統領です。大統領就任から69日後、暗殺未遂事件に遭いました。

モノの値段は上がっているのに景気は悪いというWパンチの通称「スタグフレーション」からアメリカを救うため、「レーガノミクス」という経済政策を実施しました。

その過程で、間接的に日本のバブル経済行きをアシストしました。

 

 

その3:バブルを育て、バブルを潰した日本銀行総裁達

澄田 智 第25代日本銀行総裁

当時、裏の国の支配者であった大蔵省出身です。

「霞ヶ関の天下り支配者は、日銀総裁(の澄田智だ」「バブル経済の戦犯」などと一部では呼ばれている、ちょっと気の毒な人です。

元職場の大蔵省と仲が良く、彼らの意向に従い、日本のバブルを大きくふくらます決断を次々と下していきました。

 

三重野 康 第26代日本銀行総裁

日本中がバブルに踊る中、「俺は株には手を出したことがない」と公言していた男の中の男です。

バブルが膨らみ日本中が踊る中、バブルの危険性を一貫して主張しました。

日銀総裁に着任すると、大蔵省を無視し、バブルをつぶす大胆な経済政策を取り、バブル崩壊の引き金を自ら引き、「平成の鬼平」と呼ばれることになりました。

(三重野以前は、伝統的に大蔵省から日銀総裁を選んでいました。三重野は大蔵省出身ではなく、日本銀行から叩き上げで日銀総裁になった当時では珍しい人物でした)

 

その4:裏の支配者「大蔵省の幹部」&金融機関の社長達

当時絶大なる権力を持っていた大蔵省です。

そして、彼らに強い影響力を行使されていた金融業界です。

バブル時は大蔵省の指示で株価維持工作に協力していました。

金融業界と大蔵省のその強い癒着ぶりは、過剰な接待、賄賂などとともに、バブルが崩壊するにつれ明らかになりました。

 

 

1970年代の貿易摩擦

不景気になると、モノが売れなくなるので値段は下がります。

これが常識だった1970年代。

アメリカは「モノの値段が上がると同時に、すごい不景気になる」というスタグフレーションで、大変なことになっていました。

というのも、1973年に世界中のために石油をたくさん掘っていた中東で「第4次中東戦争」が起きたのをきっかけに、石油価格が滅茶苦茶、上がってしまいました。

石油の価格が上がると、石油が原料のガソリン代も値上がりするし、トイレットペーパーなんかの値段も上がってしまいました。

そのタイミングで不況になってしまって、仕事もないのに日用品の価格は上がり続けて、アメリカの人たちはみんなすごい困っていました。

 

「なんとかしないと大統領を続けられなくなっちゃう・・・」

 

と、困った当時の大統領ジミー・カーターさんが、後に「インフレファイター」と名を残すことになるポール・ボルカーというおじいちゃんを中央銀行総裁に任命しました。

 

ポール・ボルカーさんはとにかく物価が上がるのを止めようと、アメリカ史上、類を見ないほど金利を思い切って引き上げることで、この苦しい状況から脱出しようとしていました。

1979年に平均11.2%だった金利は、2年後の1981年にはなんと20%を超えるくらいになっていました。

その結果、ドルが人気になってドル高に、円の人気がなくなって円安になってしまいました。

アメリカで日本の自動車が急に安くなって、アメリカの車が全然売れなくなってしまいました。

アメリカの日本への輸出量は減り、日本のアメリカに対する貿易量は増えてきました。

 

日本が民間政府収支の黒字をたくさん記録して儲ける一方、アメリカは民間、政府収支ともに膨大な赤字を記録しました。

「日本はアメリカ相手に物を売って儲けすぎ、アメリカは日本からものを買いすぎ」という大きな貿易不均衡を起こすことになってしまいました。

 

日本とアメリカの貿易のバランスの崩れ方がどれくらい凄かったかというと、1981年の70億ドルの黒字だったアメリカの貿易収支は、4年後の1985年には2120億ドルの赤字になりました。

アメリカ政府の財政赤字は740億ドルから2120億ドルに増えるくらい凄くなっていました。

さらに、アメリカの車があまりに売れないものだから、アメリカの自動車会社の人たちが怒って、デトロイトでは自動車産業の労働者が日本車を叩き壊して輸入急増に抗議しました。

 

この日米の貿易不均衡をなんとかしようと思ったアメリカは、日本に対して

 

・輸入増加(もっとアメリカからモノを買ってね)

・内需拡大(日本人は外国にモノを売るだけじゃなくて、もっと日本国内でもお金を使うようにしなさい)

・規制緩和(アメリカの会社も日本で商売できるようにしなさい)

・・・etc

 

などなど、強い要求を突きつけて当時の日本の総理大臣、中曽根さんはそれに従ってしまいました。

 

プラザ合意

1985年、アメリカのジェームズ・ベイカー財務長官が、アメリカの製品が売れない現状をなんとかしようと、主要5カ国の偉い人を集めて、マンハッタンホテルのプラザホテルで会議を行われました。

ここでドルの価格を下げる(特に貿易不均衡の大きかった日本円に対して、ドルの価格を下落させる)ために、それぞれの国で協力することに合意しました。

ドルの価格が下がれば、アメリカの製品が海外で安くなってもっと売れるんじゃないかって狙いでした。これを「プラザ合意」とよび、ついにドル高の修正が各国の間で行われました。

その結果、1ドル259円で高値をつけていたドル円相場は、たったの数ヶ月後には220円を割り込むレベルまで円高になってしまいました。

安定成長とバブル期を分けたのは1985年9月に行われたプラザ合意ですが、その後、1987年の2月に行われたルーブル合意まで100円以上の急速な円高が進行しました。

 

 

短期間で円高が進んだことで、海外のものが安く買えるようになり、日本人のバカ買いブームのきっかけとなりました。

しかし、日本製品の価格が、海外の人からすると2倍近くに跳ね上がることになって、海外でモノを売って儲けていた日本製品が海外で売れなくなり、日本経済の悪影響がかなりでました。

 

バブル以前の1985年、プラザ合意直後の日本は円高不況と称された深刻な不況でしたが、輸出産業が大打撃を受け、東京や大阪などの町工場には倒産が続出していました。

当時の日本のGDPに占める製造業比率は高く(現在は18%程度)、円高が輸出産業、ひいては日本経済に与えたダメージは現在と比較にならないほど大きく、製造業の日本国外への流出もこの時期に本格化しました。

 

「モノを作って海外に売って儲けていた日本企業が、儲からなくなっちゃった」という「円高不況」をなんとかしろ!!

 

という製造業のさけびに、日本の影の支配者だった大蔵省は、日本銀行に金利を引き下げてお金を借りやすくすることで日本企業を助けるよう圧力を掛けました。

大蔵省出身で彼らと仲の良かった澄田日銀総裁は、1985年に約5%だった公定歩合:(銀行が企業に貸し出す金利の基準となる金利)を、合計4回引き下げて、翌年の1986年には3%まで下げました。

 

「金利を下げると企業がお金を借りてそれを使い出す。やがて景気が良くなって物価は上がって企業は儲かる」

 

と考えられるからです。

 

しかし、その時、偶然にも原油価格が下がっていて、さらに円高で輸入価格が下がっていたので、金利を引き下げても日本国内の物価はそんなに上昇しませんでした。

その代わりに不動産や株価など資産価格が上昇し始めました。1985年に約13000円だった日経平均株価は、翌年の1986年8月にはなんと日経平均株価は18000円に上がりました!

たった一年で日本全体の株価が40%近く上昇したのです!

 

その後も日経平均株価は急上昇し始め、1989年12月29日の大納会ザラ場で38957円の最高値を記録しました。

バブル期の日本株のPER(株価収益率)は、80倍以上となり、バブルが弾ける直前の日本株のPERは、100~200倍でした。

 

バブル景気で日本がインフレにならなかったのは、円高の影響で安い輸入品が多く日本に入ってきたからです。

1987年2月、逆にドルが安くなりすぎてしまったので、それを修正しようと各国が集まって「当時の為替レートが適正である」とした「ルーブル合意」が結ばれましたが、効果はほとんどなく円高は継続しました。

 

ブラックマンデー

そしてその年、ブラックマンデーと呼ばれる株価暴落が世界中で起きました。

株価が暴落して、これ以上景気が悪くなると日本の企業が潰れてしまうので、日本銀行は金利を下げ続けて企業を応援するという通称「金融緩和」を続けました。

ただ、これがバブルの始まりになるとは、この時、誰も予想していませんでした。

 

ブラックマンデーと呼ばれる世界株価暴落の翌日、大蔵省は当時4大証券会社だった野村証券、大和証券、山一証券、日興証券の4つの証券会社の代表を呼び出して、日経平均株価を支え、2万1000円以上に維持するように要請しました。

 

その方法が、特金と呼ばれる、銀行や証券会社を使って企業に株や不動産に投資をさせる制度でした。

大蔵省は、株価を維持するために特金(特定金外信託の略)と呼ばれる「株や不動産を売って利益が出た時の税金を低く抑える制度」を企業のために整備、その利用を認めました。

 

これを機に証券会社は特金のパワーアップ版の「営業特金」とよばれる、利回り保証のついた商品を企業に販売しました。

これは企業のために資金を運用して、銀行に預けた時にもらえる金利を超える水準で、最低利回りを保証するという素敵なサービスでした。この営業特金、絶対儲かるということを証券会社が約束しているようなものなので、企業から大人気でした。

 

1985年に特金に投資された総額は9兆円弱、4年後の1989年にはなんと40兆円まで膨れ上がっていました。

この営業特金は、法律違反すれすれ(というか違法)のサービスで公式には認められていませんでしたが、大蔵省は株価を維持するために黙って見逃していました。

営業特金が流行りだしたので、企業は本業以外での、「株や不動産投資での収益」が急に伸び始めて、財テクなんて言葉が流行り出しました。

財テクの利益は凄まじく、財テクで儲かったお金で仕事用の機械を買ったりと、本業の設備投資にも使ったので、日本の景気は良くなっていきました。

 

実は証券会社による利回り保証のついた「営業特金」が始まる前の1980年代初めから、日本企業は財テクと呼ばれる財務のハイテク化によって得た利益で、すごい儲けるようになっていました。

というのも実はこの時期、アメリカから「円相場を意図的に低い水準で押さえている」との非難されていたことに加えて、日本の規制だらけの状態をもっと自由にするように圧力を掛けられていたからです。

アメリカの圧力を掛けられ規制をなくすことで、外資系金融機関が日本で商売を始めたり、日本の金融機関が外国為替を自由に買ったり売ったりすることができるようになったり、お得意さんの預金金利を銀行が自分たちで自由に設定できるようになりました。

 

さらに、この時期に企業が海外から資金調達をすることもできるようになりました。

大蔵省はこの規制緩和で、世界の金融セクターになってニューヨークやロンドンと並ぶことを目指していました。

 

続く


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