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日本バブル経済 ~その4~


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不動産投資ブーム

バブル期に建設・不動産・ホテル業界は、リゾート地やゴルフ場を次々と開発しました。

1987年に総合保養地域整備法、通称「リゾート法」が制定され、都市から離れた地域においても、大企業を誘致してリゾート施設を開発する動きが活発となりました。

特に北海道ではスキー場などのリゾート事業が急激に拡大しました。

これにより、それまで見向きもされなかった土地が相当な価格で取引されるなど、土地価格の上昇に拍車を掛けました。

またゴルフ場の会員権の価格は高騰し、それとともに次々に豪華な設備を持ったゴルフ場の開発が全国で進められました。

なお、当時のゴルフ場のテレビCMでは、バブル景気崩壊後なら「○○自動車道○○インターから車で○分」などとするところを「東京ヘリポートから○○分」などと案内するほどでありました。

 

というのもこの頃、日本の銀行は、外国の銀行と比べて少ない資本金(銀行が持つ自分のお金)で営業することができていました。

それで欧米の銀行が、日本の銀行の自己資本比率(銀行の資本金と借金&預金の割合)を欧米の水準まで高めるように要求しました。

 

1987年、国際決済銀行(BIS)が定めた「バーゼル合意」という決まりに参加することになって、日本の銀行も海外の銀行と同じように自己資本8%*の積立を義務化されました。

 

*簡単にいうと、自分のお金が8万円しかなかったら、92万円までしか預金を集めたり、他の銀行から借り入れをしてはいけないということ

 

ただ日本の代表団の決死の努力で、「持ち株の含み益の一部を自己資本に算入できる」という日本だけの特例をさりげなく認めさせることに成功しました。

というのも当時、日本の銀行は株式持ち合いにより、取引先の株式を大量に保有していたからです。

当時バブルが盛り上がり始めて株価は上昇していました。

なので、この株価上昇分の一部を自己資本にできるよう必死に交渉して、それに成功しました。

 

銀行は自分のお金(資本金)と、預金者から集めた貯金を、融資し、その利息をもらうことで儲けています。

景気が良くなって、「お金をもっと使いたい!」という企業が増えると、銀行は融資の量を増やします。

預金者にも預金金利を支払わないといけないので、現金をそのまま金庫に預けていると損をします。

なので、銀行は企業にお金を貸して利息をもらうと、とっても幸せになります。

ただお金を借りた人の中には、お金を返さない人も出てきてしまいます。

ある人からお金を返してもらえなくなっても、みんなから預かっている預金は守らなければいけないです。

なので、銀行の自分のお財布から、返してもらえなくなったお金を補填します。

 

ある人達に返してもらえなくなった金額>銀行の資本金

 

になると、銀行は破産してしまいます。

ここでバブルの原因のひとつとなった「BIS規制」(正確にはバーゼル合意)について説明します。

BIS規制というのは、

 

「銀行が自分のお金がないのに預金や借金をしてまで、人や企業にお金を貸しすぎないようにする」

 

「どの国の銀行も同じルールの下で頑張ることで、銀行が営業をしていく上で、国のあいだでどの銀行が有利か?をなくす」

 

という2つの目的で作られた規制です。

「銀行がお金を人に貸しすぎて、そのほんの一部が返済されなかっただけで潰れてしまい、預金者や国が迷惑する」ということを防ぐための規制です。それで、貸すお金の量を増やすには、「銀行の資本金(銀行自身のお金)はこれだけないとだめですよ〜」って基準を決めました。

これが「最大でも銀行の資本金の12.5倍(8%)*までしか、お金を預かったり、融資をしてはいけません!」というバーゼル合意、通称BIS規制です。

 

*8%→100%÷8%=12.5倍

 

ただいきなり言われても無理ですよ・・・・ということで、日本だけ特別に「持っている株の含み益の約半分*」を銀行の資本金に入れていいという条件にしてもらいました。

 

*細かく言うと「含み益の45%を自己資本の50%まで算入できる」という条件です。「

持っている株を誰かに売って利益確定をしていなくても」、持っている株の価格が上がればそれを資本金扱いにすることができました。

 

これがどういうことかというと、資本金が増えて(実際は利益を確定していないので増えていないけど)、融資できる量が増えるということです。

もらえる金利も増えるので銀行はハッピーです。株価が下がると、増えていた資本金がその分減るので、融資できる量が減るということです。

資本金が減った分、融資の量を減らさないといけないので、なんとしても貸しているお金をすぐに回収しないと銀行免許が取り上げられちゃうという事態になります。

そんなこんなで、銀行の資本金の量で貸し出せる融資量の限界が決まるようになりました。

含み益の45%を自己資本の50%まで算入できる→株価が上がれば、貸し出せる融資量を増やしても良いということです。

 

不動産融資を増やせば、土地価格が上がり、担保価値が上がるため融資できる量が増える・・・

株価や不動産価格が上がれば、銀行の自己資本が増えるので、さらに不動産を買いたい人や企業に貸し出しをさらに増やすことができる・・・

お金を借りた人は、そのお金でさらに株や不動産を買って、それでまた価格が上がる・・・

 

・・・以下エンドレスループ

 

こんな仕組みで「無限に株価や不動産価格が上がっていく仕組み」を、世界主要国の中央銀行が認める結果となってしまいました。

これをきっかけに、本格的に株価や不動産価格が上がり出し、日本がバブルに突入してくことになりました。

バブル期に特に借金を増やしたのは非製造業でありました。

建設業、不動産業、ノンバンクはバブル三業種と呼ばれ、借金がその他の業種と比べて大きく増えた業種でした。

また、大蔵省、日本銀行、東京証券取引所を結ぶ三角地帯は「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれていました。

 

【実録】バブル時代に起きた日本のブーム特集

ここからは、「実際日本のバブルがどれくらい凄かったのか?」がわかるエピソードをいくつか紹介していきます。

 

その1:世界の画家コレクターも驚いた日本の絵画ブーム!

世界最大手の美術品競売の運営として有名なサザビーズという会社は、美術品が欲しいという人を増やすために、世界中の裕福な資産家に向けて、豪華なチラシや、贅沢なパーティーをしてアピールをしていました。

それだけではなく、競り落とした美術品を買うための融資、美術品の相場がわかるように「美術品市場指数」を開発して発表することまでしていました。

こうした努力もあって、1980年代には「美術品は投資価値がある」ということが、世界中で当たり前になりつつありました。

 

1985年の「ドル安円高にします!」というプラザ合意で極端に円高になった結果、海外のものがほぼ半額になり、日本人による空前絶後の絵画ブームが始まりました。

1986年には、日本の美術品輸入総額がドルベースで前年の4倍になり、世界の美術品コレクターのあいだで急に日本人が存在感を表し始めました。

ここから「日本人の美術品へのお金の使い方がどれだけ凄まじかったか?」のエピソードを一部紹介します。

 

・1987年、安田海上火災がゴッホの「ひまわり」に4000万ドル弱(約57億円)を支払う(美術品の取引価格として、過去最高額の3倍以上の金額)

 

・640万ドルという当時の過去最高額でダイヤモンドを購入

 

・グーテンベルク聖書という西洋初の印刷された聖書を過去最高の590万ドルで購入

 

・ピカソが描いた未完成の作品「ピエレットの婚礼」を5140万ドルで落札

 

・大昭和製紙の名誉会長がゴッホの「医師ガシェの肖像」を8250万ドルで、ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を7800万ドルでそれぞれ購入

 

日本がバブルに盛り上がる1980年代末、フランス印象派の絵画を15年前と比較したところ、ダウ工業平均株価は2倍にもなってしまい、20倍以上に値上がりしたと推定されました。

 

この頃、ピカソが流行っていて、特に日本人が美術品の価格を引き上げたことで、美術関係者の中でも「美術品の世界で過去になかった熱狂っぷり」と当時話題になっていました。

購入した高価な絵画や美術品は、銀行から借り入れをして株式や不動産を購入するときの担保にも使われて、企業の財テクの立派な一部門となっていました。

 

 

その2:ゴルフ会員権は10倍に!

バブル時代、美術品と同じくらい盛り上がったのが、ゴルフの会員権でした。

元々、会員権はゴルフを利用する権利ですが、1980年代に土地の価格が上がるにつれて、「会員権=ゴルフ場の不動産を保有する権利」という見方から、投資対象として魅力的になったことから一気に売買が活発化していました。

ゴルフの会員権に人気が出始めたので、銀行は会員権を担保に新規ゴルフコースをつくる資金を融資するようになりました。

1982年、日本経済新聞が全国約500のゴルフコースを対象に平均価格を算出、日経ゴルフ会意見指数を発表しました。

不動産は売ったり買ったりするのが大変で価格がわかりづらいことから、ゴルフ会員権指数を不動産市場の先行指標とする人もいたくらい流行っていました。

1982年1月の水準を100とするゴルフ会員権指数が、1985年末には160に、プラザ合意で円高になった翌年1986年にはそこから2倍に、1990年春には1000弱と、たったの8年でゴルフ会員権の相場は10倍になっていました。

1980年末にはなんと1000を超えるゴルフコースが建設されていました。

 

その3:政府が売り出したNTT株価!

実はバブルの初期、大蔵省にとって株価を高くすることはとっても大事なことでした。

2015年にゆうちょグループが上場(政府が100%保有していたのを一般投資家に売りに出した)した時のように、政府が運営と保有していたNTTの株を民間に販売する予定だったからでした。

というのも、景気を良くするために国がお金を使いすぎて来た反動で、国の借金を少しでも返そうと大蔵省は必死になっていました。

1986年8月、日経平均が18000円を超えるのとほぼ同時に、NTTを上場させて民間に売り始めました。

10月に第一回分として、合計20万株を売りに出すと発表しましたが、政府は売り出し価格を発表していなかったにも関わらず、2ヶ月の間になんと日本国民の12人に1人、1000万人近くが応募しました。

抽選により株式を割り当てて、1987年2月にNTTは東京証券取引所で上場しました。

上場時のNTT株価は120万円だったのが、上場後たった2日で25%値上がりしました。

株式市場はこれに反応し、数週間の間にNTT株は320万円になりました。株価収益率は200倍になりました。株価収益率というのは、「企業が稼ぎ出した1年間の利益あたり、1株につき何倍の価格がついているか?」という、株価がどれくらい高いのか安いのかを見る指標です。

例えば、ある株式会社が一年間で1株当たり1万円利益の出る会社で、株価が20万円なら、「1株当たり20年分の利益の価格がついていて、株価収益率は20倍」という見方をします。

NTTの時価総額は50兆円を超えて、NTT1社の時価総額だけでなんと「ドイツの株式市場」と「香港株式市場」の合計を上回る水準になりました。

1987年11月のNTT株2回目の放出の時、ジャパンエコノミックジャーナルという海外の雑誌では、こんなふうに書かれていました。

 

「NTT株の人気を支えているのは、政府が売り出した株だから、政府が国民に損をさせるはずがないという見方である。

・・・個人投資家はNTT株を買うとき、日本そのものを買うのだと考えている。だから、何の心配もなく買っている。」

 

NTT株が売りに出される時期から、企業の財テクによる利益水増し効果以上のペースで急激に株価は伸びていきました。

 

日本企業の海外でのお金の使い方も凄かったでした。

 

・1986年、三井不動産がマンハッタンのエクソンビルを記録破りの6億1000万ドルで購入。その時、三井不動産の社長が、ギネスブックに自分の名前を載せてもらおうと、エクソンの言い値に2億6000万ドル上乗せしたとも新聞で報じられていました。

 

・三菱地所はニューヨークのロックフェラーセンタービルを10億ドル以上(当時のレートで約2200億円)で買収

 

・ソニーがハリウッドのコロンビアピクチャーズを34億ドルで買収

 

・・・etc

 

などなど、アメリカを象徴とする有名な資産を次々に巨額で買収、アメリカからはジャパンマネーとして恐れられていました。

こんなふうに、新聞などでも日本を警戒する声が上がってくるようになっていました。

 

1987年、ついに日本はGNP(国内と海外にいる日本国民が生み出した付加価値の合計を表す経済指標)でアメリカを追い抜いて豊かさで世界第一位の経済大国アメリカと並ぶことになりました。

日本の銀行は総資産と株式時価総額で世界の上位を独占しました。

日本の株価は欧米の常識ではありえない株価水準になったので、海外投資家は1980年代半ば以降、持株を徐々に減らしていきました。

 

海外投資家とは対照的に、日本国内投資家の間では「日本の会計基準では利益が過小評価されている」「株式持ち合いで株価収益率が高めになっている」という理由から、株価は妥当で当然の水準であると考えられていました。

何をやっても株価が上がる状態で、株式分割をするだけでも株価が上昇する状態でした。

 

戦後の日本は、「各企業が自分たちの考えで頑張る」というのではなく、「通産省や大蔵省などを初めとする官僚による管理」のもと経済成長をしてきました。

どの企業に特権的な地位を与えて、どの業界を外国企業から守るか?を官僚がすべて決定と管理していました。

日本の官僚による、「外国からの輸入品の制限」のおかげで、日本の企業は「海外で売るよりも高い価格で日本人に商品を売る」ことで成長してきました。

 

その流れで株式の持ち合いは1970年初め、外国企業による買収を防ぐために活発になり、バブルが盛り上がりはじめていた1980年台後半には、なんと発行済株式数の約70%が持ち合い株になっていました。

この株式持ち合いは、日経平均株価が1000円下落すると、銀行の保有株式の時価は3兆円減少し、損失を被るというすごい規模でした。

当時の日本では、こんなふうに株をお互いに持ち合ってそれを決して売らず、株を売る人の数が少なかったのです。

これが当時日本の株価が下がりにくく、株価が上がっていった原因の一つだったという分析がされています。

 

一方で象徴的ビルや企業が日本企業の手に渡ったことにつき、アメリカの心を金で買い取ったとする非難(いわゆるジャパン・バッシング)が浴びせられました。

また、日本国外の不動産への投資は現地の地価の高騰を招くとともに資産税を上昇させ、正常な取引を害し地元経済を混乱させたものとの非難が浴びせられました。

 

「アメリカ経済は(日本による)真珠湾攻撃にさらされている」なんてことも頻繁に言われるようになって、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という本がアメリカでも日本でもベストセラーになっていました。

1980年台後半にはあまりの日本の勢いから、日本は「債権大国」「資産大国」「金融大国」になったとまで、海外から言われるようになっていました。

野村証券は日経平均株価が1995年に8万円に達すると予想しました。

 

さらに当時の内閣総理大臣だった中曽根首相は、

 

「日本経済が成功し、アメリカ経済が後退している理由は、日本が単一民族社会であることに対して、アメリカは様々な人種の寄せ集めであるからだ」

 

という発言が飛び出すほどになっていました。


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