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日本バブル経済 ~その5~


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バブル就職

就職もバブル時代には凄まじかったです。

有効求人倍率は、1991年に1.40倍を記録し、同年の大卒最高値は2.86倍になりました。

この時代に大量に採用された社員を指してバブル就職世代とも言われました。

社内では同世代の人数が多く、社内での競争が激しくなり、一方で、就職直後にバブル崩壊を受けて業務が削減され、それぞれの社員が切磋琢磨する機会も減りました。

また、以後の採用が長年に亘って細ったことから「後輩」「部下」が居らず、長く現場の最前線に立たされ昇進もままならない者も多かったのです。

 

民間企業が好景気を受けた好業績を糧に、更に営業規模を拡大したり、経営多角化を行うために新卒者向けの募集人数を拡大し、学生の獲得競争が激しくなりました。

多く企業が学生の目を惹き付けることを目的にテレビで企業広告を行い、立派な企業パンフレットを作成・配布して学生の確保に走った他、青田買いの一環として、都市部の大学生が主宰するイベント系サークルやそれらが企画するイベントへの協賛を行いました。

 

学生の確保に成功した企業が内定者を他社に取られないようにするため、研修等と称して国内旅行や海外旅行に連れ出し他社と連絡ができないような隔離状態に置く、いわゆる「隔離旅行」を行った他、「内定を辞退した学生に人事担当者が暴行した」というような都市伝説まで囁かれるようになりました。

これらの背景には急激な経済膨張・業務拡大のため、夜中2時過ぎまでの残業や月に1~2日程度しか休みが取れないといった事態がざらになるなどの深刻な人手不足があり、早急に人員を確保することが急務でした。

体育会系の学生は我慢強く体力があり、上下関係による人脈で後輩学生を入社させやすいというので企業からは人気がありました。

特に証券会社は、現場が人手不足だったので、OBを通じて学生に食事を振る舞うなどしてまで入社させました。

 

しかし、この時代には全ての大学生が誰しも一流企業への就職が楽であったわけではなく、就職人気上位30社程度の一流企業に限定すると「指定校制度」の存在と短期大学を含め大学進学率が同世代の3割程度であったことに留意する必要があります。

すなわち主に恩恵を得たのは東京圏の国立・上位私立大学、及び京阪神圏の国立大学でした。

したがって一流企業は満遍なくあらゆる大学からの採用を増加させたのではなく、バブル景気以前より長年にわたって存在していた指定校に在学する学生の採用を大幅に増加させたことがこの時期の売り手市場の傾向でした。

その意味でインターネット等でのエントリー制度が主流となった現在の方が、従来の指定校漏れ大学からの一流企業就職にも少ないながら可能性が出てきたともいえます。

もっとも当時の指定校制度に漏れていた首都圏の一般的な私立大学、及び地方の大学に所属する学生も業界2~4番手の大企業に就職できたことから、当時の方が総じて就職活動は容易でした。

 

民間企業の業績・給与がうなぎ上りだったことに比べ、景気の動向に左右されにくい公務員はバブル景気の恩恵をさほど受けませんでした。

このため「公務員の給料は安い、良くて平均的」といった風評が大学生の間で蔓延して、「公務員はバカがなるもの」と見下されがちでした。

とりわけ地方公共団体には優秀な新卒が集まりにくく、各団体は公務員の堅実性のPRを積極的に行われました。

農林水産業や製造業などの分野と比較して、銀行や証券といった金融分野が大幅に収益を伸ばし、これらの業界は、さらに高度な金融商品の開発に充てる人材の確保を意図して、理系の学生の獲得に動きました。

また、バブル景気の浮かれた雰囲気の中で、電通やサントリー、カネボウやフジテレビなどの、広告出稿量の多い、もしくはマスコミや広告代理店、外資系企業などの華やかなイメージの企業の人気も高まり、文系学生のみならず理系の学生もがこれらの企業に殺到しました。

 

好業績で注目を浴び高い給料を提示する金融業や華やかな業界への就職希望が増えたのに対し、製造業では学生の確保に苦労することになりました。

理系の学生が、産業界以外の分野、殊に金融業やサービス業へ就職することを指して文系就職とも言われました。

これに対応するため多くの製造業が初任給を引き上げる動きに出ましたが、場合によっては既に在籍している社員よりも高い俸給が提示されることもあり、不公平であるとの批判も起こりました。

 

トレンディドラマ

放送局では大量のスポンサーが付いたことで莫大な収入が入るようになり、番組にはジャンルを問わず多額の制作費が惜しみなく投入されました。

この時期はファッションモデル出身の若手俳優や女優を主役に据え、生活感が皆無な毎日の暮らしを描いた「トレンディドラマ」が若い女性にブームとなっていて、特にフジテレビ月9ドラマがその牽引役となっていました。

また、アメリカに多いジャンル別FMラジオ局に倣った(スタイルを真似る、英語アナウンスの多用等)「お洒落な音楽だけを流すFM放送局」が登場したのもこの当時でした。

テレビコマーシャルも従来の商品宣伝型CMは下火になり、それに変わって企業イメージを向上させることを目的としたCM(JR東海のシンデレラエクスプレス等)が多く製作されました。

 

アッシー、メッシ―、ミツグくん

また一部の男性は女性の気を引くべくプレゼントを贈ったり、高級レストランで接待したり、彼女たちを乗せる乗用車にお金を注ぎ込んだりしているとメディアでは伝えられ、このような一部男性は「アッシーくん」、「メッシーくん」、「ミツグくん」、「キープくん」などと蔑んで呼ばれていました。

そして、彼らに対する正式な“彼氏”は「本命くん」とメディアは呼んでいました。

しかし、アッシーや三高などはメディアや社会学者、評論家らが面白可笑しくいっていたに過ぎず、実際にどれだけの男性がアッシーをしていたのか、どれだけの女性がアッシー扱いしていたのかは検証されていません。

 一方で、一部の羞恥心を欠いた中年女性を「オバタリアン」、品がなくて、帰宅したら母親に「風呂、飯、寝る」しか言わないような若い女性を「おやじギャル」と呼んだりしました。

バブル時代には、「クリスマスは大学生が高級ホテルのスイートルームでパーティー」「赤坂・六本木では万札を振りかざさないとタクシーが拾えない」といった事象が起きていました。

 

海外旅行

格安航空券の流通拡大にあわせて、日本人の海外旅行者が増加したのもこの時期からでした。

1986年には、550万人程度だった日本の海外旅行者が、わずか4年後の1990年には、1000万人を突破しました。

 

ゲーム機

家庭用ゲーム機業界においても、ファミコンの次世代を担う次世代機の競争が各社で始まっていたが、なかでもNECホームエレクトロニクスが開発した「PCエンジン」の周辺機器で、当時最新鋭だったCD-ROM2システム、セガ(後のセガゲームス)が開発した「メガドライブ」の周辺機器であるメガCDを、ゲーム機に組み込ませた製品が4~5万円で発売されるなど、ゲームにおいても高級志向が浸透していました。

1990年にSNKからリリースされた「NEOGEO」のように、高級ゲームの市場を開拓すべく発売されたゲーム機もありました。スーパーファミコンのソフトの価格が、一部を除き八千円、九千円台であったことも、当時の好景気を象徴しています。

 

バレンタインデー

バレンタインデーにチョコを贈る慣行は、オイルショックによる景気低迷の時代に、百貨店業界がより積極的に仕掛けたように、クリスマス・イヴにカップルで夜景の見えるレストランで食事し、ホテルに宿泊するというスタイルは、円高不況期にホテル・外食産業やマスメディアなどによって仕掛けられました。

赤坂プリンスホテルやシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテル、東京ベイヒルトンなどの高級シティホテルに宿泊することが流行し、3か月前の予約受付開始直後に「12月24日の予約」が一杯になる状況が続いていました。

 

スキーブーム

キー場の開発が相次いでなされたことと、1987年に映画『私をスキーに連れてって』が大ヒットしたこともあって、スキーブームが起こり、苗場プリンスホテルなどが人気となり、リフト待ちに数時間かかるような事態も起きるほどでありました。

さらに、東京都心至近距離の千葉県船橋市に、屋内スキー場「ザウス」が出来たりもした。「ザウス」は、バブル崩壊後の1993年のオープンであるが、スキー人口のピークの年でした。

 

ディスコ

消費の過熱は、六本木や銀座、新宿、渋谷などの歓楽街にも影響し、これらの盛り場では、大金を手にしたいわゆる「バブル紳士」から、学生ビジネスのみならず、アルバイトで遊ぶための金を手にした学生までが大金をつぎ込みました。

1980年代後半にかけて、六本木では雑居ビル「スクエアビル」の殆どがディスコになった他、六本木駅界隈には、50店舗以上もディスコが乱立し、その多くが盛況になるなど、第2次ディスコ・ブームが起こりました。

また、カフェバー、カラオケパブが流行するなど、この頃のバブル景気の象徴として「ジュリアナ東京」が取り上げられることが多いです。

また、都会に在住する裕福な大学生を中心に組織されたイベント系サークルが、これらのディスコを数十店舗単位で同時に貸し切り、ミズノや日産自動車、スバルやサントリーなどの大企業のスポンサーを付けた上で、全国規模で数千人を動員するパーティーも行われました。

 

高級車ブーム

バブル経済の時代、ベンツや日産のシーマなど高級消費ブームに沸きました。

1988年1月に、日産自動車が発売した500万円以上の高級車「日産・シーマ」が大ヒットを記録、日本銀行の支店長会議では、日本の豊かさを表しているとしてこの事例を「シーマ現象」と名付けました。

それまでは、一部の富裕層のステータスシンボルとされていた外国車も、その販売台数の急増から、東京都や神奈川県などの都心部ではメルセデス・ベンツ 190Eが「コ(子)ベンツ」「赤坂のサニー」、BMW3シリーズが「六本木カローラ」などと揶揄されるほどに普及しました。

特に高級外車は、東京都心や大阪市内などの大都市の道路でメルセデス・ベンツSクラス(ケーニッヒやキャラットコンプリートなどのチューン版も多かった)やポルシェ・911、ジャガー・XJなどが走っているのが全く日常の光景の一部となり、フェラーリやランボルギーニ、マセラティやデイムラー、さらにはロールス・ロイスなどの、これまで輸入台数の極端に少なかった高級車が走っていることでさえ、大都市近郊においては特に珍しい存在ではなくなったのはこの頃以降のことでした。

またこの当時、ヤナセ(メルセデス・ベンツ)やBMWジャパン(BMW)などの正規輸入販売代理店経由でこれらの車を購入する場合、車種によっては注文してから納車されるまで1年以上かかるケースがあったため、輸入車専門店がドイツやアメリカ、ドバイなどから新車(時には中古車)を並行輸入し、「即納車可能」として正規輸入販売代理店の販売価格に上乗せしたプレミアム価格で販売し、その広告を全国紙に掲載しているケースもありました。


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