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日本バブル経済 ~その6~


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ブラックマンデー

バブル時代はこんな時代背景でしたが、1987年10月に起こったブラックマンデーと呼ばれる世界的な株価暴落で、一番下げが浅かったのが日本市場でした。

アメリカのダウ工業平均株価が31%下げたのに対し、なんと日経平均だけは19%の下げで済んだことが大きかったと言われています。

というのも前述の通り、ブラックマンデーの翌日、大蔵省は当時の4大証券会社、野村証券、大和証券、山一証券、日興証券のそれぞれの代表を呼びつけて、「NTT株の相場を支え、日経平均株価を21000円以上に維持するように」と要請したからです。

 

この大蔵省の要請に応えるために、証券会社は素人のお客さんに電話をかけて株の買うように煽りました。

その中でもいっぱい手数料を払ってくれる大口のお客さんには、前にも増して最低利回りと損失補償を約束して株を買うように説得していました。

 

大蔵省は、証券会社に加えて投資信託にも「株を買い支えないなら年末の投信募集を許可しない」と圧力をかけて、投資信託にも株の買い支えに参加させました。

いうのも、その1ヶ月後に政府によるNTT株の第2回目の売り出しが迫っていました。

そのときに株価が低いと困るので、特に機関投資家にNTT株の売りを自粛するようにも圧力を掛けていたのです。

その努力が実って、大蔵省はNTT株を一株255万円で売り出すことに成功、5兆円の収入を得ました。

1988年1月、大蔵省は日本企業や銀行が株価下落で損失が表面化することを恐れて、予定していた会計基準の変更を実質1年遅らせることで、企業の株価維持に最大限努力しました。

 

会計基準の変更

大蔵省は、会計基準を、株や不動産を「買ったときの値段と時価を比べて低い方の価格を評価額にする」という「低価法」に変更する予定でした。

しかし、このブラックマンデーでの暴落を見て、低価法の導入を1ヶ月遅らせることで、株価が大きく下がった1987年度は、企業が株価下落による評価損を決算に計上しなくても済むようにしました。

さらに大蔵省は生命保険会社による株の買い支えを促すため、「企業の株や不動産の売買で出た利益に対する税金を安くします」という「特金」の枠を広げて、日本中が株を買い支えるように、あの手この手で頑張りました。

そんなこんなで、世界的な株価暴落のわずか数ヶ月後には、日経平均は暴落前の水準を取り戻した上に、なんと新高値をつけるようになりました。

 

この大蔵省の株価維持工作、当時は世界同時不況回避を防いだ立役者したとして、海外から高い評価を得ていました。

ただこのせいで「大蔵省は決して株価を下落させない」「大蔵省は投資家に損はさせない」と投資家に思わせることになり、株価上昇神話を生むことになりました。

そんなこんなで1988年以降、株価の上昇スピードはより異常なものになっていました。

 

1987年10月に起きたブラックマンデーの後、ある証券会社の社長は、こんな風に言っていました。

日本が相場暴落を乗り越えられたのは、「日本がコンセンサス社会で、一つの方向に動くのを好むからだ」と答え、大蔵省の官僚は非公式の場で、「株式市場は為替市場よりも相場操縦の方が簡単だ」と自慢していました。

ダーイースタンエコノミックレビューという海外の雑誌では、当時東京証券取引所の事を次のように書いていました。

 

「東京証券取引所は世界で最も冷笑的で、投機的で、相場を操縦しやすい市場である」

 

世界的に有名なファンドを運営していた有名な投資家ピーター・リンチは日本市場についてこのようなコメントをしていました。

 

「1986年に私が初めて日本を訪れた時に、日本市場は操作されているという印象を受けた。

 

中略

 

その後のある有名な日本の証券マンとのミーティングでは、日本の株価がどの程度操作されているのか、についてヒントを得た。

その銘柄の名前を私は覚えていないが、彼はある注目銘柄について説明してくれた。

 

頻繁に数字を述べていたが、私にはそれが売上高なのか利益の数字なのか理解できなかった。その点を質問した所、なんと彼は一年後の株価の話をしていたのであった。

一年後に調べてみたら、彼はまさしく正しかった。」

 

株式市場が20%以上上昇していたにもかかわらず、投資信託などは平均利回りが4%にも満たなかったからです。

株価は驚くほど上昇しましたが、個人投資家の多くは証券会社の手数料稼ぎの道具にされていました。

 

バブル時代に汚職まみれた政治とお金のスキャンダル時代でした。

一般的に政治家は、議席を維持するために、若手議員でも年間4000万~1億円。

中堅代議士以上になると少なくとも1億円から2億円は掛かると言われていました。

1989年当時、日本で国会議員として1議席維持するのには、4億円は掛かるとイギリスでは分析されていました。

政治家さんたちにとってお金はとっても大事なものです。

選挙で自分への投票を集めるのにも、派閥を作るにも何をするにもとにかくお金が掛かります。

そんなこんなで政治家さんたちのほとんどが、お金が喉から手が出るほど欲しかったのです。

なんせ、政治家に落選、つまりお金がないと無職になってしまうので・・・

 

リクルート事件

バブル時代は特に政治家さん達がお金のことで汚職にまみれていました。

政治家さん達がいかに株式市場に深く関わっているかが暴かれたのが、1988年に発覚したリクルートコスモスの未公開株を巡るスキャンダルでした。

リクルートの創業者、江副 浩正さんが、政界への影響力を持つために、政治家や官僚などに広くリクルートの不動産子会社の株をばらまいていました。

このスキャンダルは戦後最大のスキャンダルで、閣僚、代議士、事務次官、NTT元会長、リクルート関係者12人が訴えられて有罪判決を受けました。

 

総理を歴任した中曽根さん、後に内閣総理大臣になる竹下登さんと宮澤さんをはじめ、外務大臣や内閣官房長官を任されてきた大物政治家の安倍晋太郎さん(現安倍晋三内閣総理大臣の父)、日本経済新聞社社長なども株を譲渡されていたことが発覚しました。

事件発覚から1年もたたず、当時大蔵大臣だった宮澤喜一さんと法務大臣は辞任しました。

 

当時内閣総理大臣だった竹下登さんは、リクルートコスモス株や政治献金などを含め、計1億5000万円受け取っていたことを認めて、首相の代理人で会った青木秘書は自殺する事態に・・・この事件をキッカケに、日本中が政治不信になってしまいました。

 

日経平均株価の下落

世紀の大スキャンダルで日本中が政治不信になっていく中、1989年の終わりに近づくと、日経平均株価はついに4万円の大台に近づいていきました。

年初来で27%、1980年代初めと比較すると5倍近く上昇していた計算になります。

当時の配当利回りはわずか0.38%、株価収益率は1987年のピーク時の90倍からは下がりましたが、それでも80倍の水準でした。

株を買うための借金である信用取引残高は約9兆円と、バブルが始まる前の1980年と比べるとなんと8倍にまで膨れ上がりました。

 

利下げの実施後の1988年度補正予算で当時の大蔵大臣であった宮沢喜一は公共事業拡大に踏み切りました。

また、急激な円高によるデフレ圧力にもかかわらず日銀は当初、公定歩合を引き下げずに据え置くとともに、むしろ無担保コールレートを6%弱から一挙に8%台へと上昇させるという「高目放置」路線を採りました。

そのため、一時的に非常な引き締め環境となり、その後数年のインフレ率の低下を招きました。

 

1989年4月1日、消費税(税率3%)が導入されました。

このとき、便乗値上げが起きました。

中曽根税制改革により法人税が42%から30%へ、所得税最高税率が70%から40%に引き下げられるとともに物品税も撤廃され、可処分所得はその分増大して土地や株式の購入に向かったため、土地価格や株価が高騰しました。

中曽根内閣による大都市圏内の土地容量(容積率)の規制緩和、東京湾横断道路(東京湾アクアライン)建設プロジェクトの推進、当時の鈴木俊一東京都知事による「第二次東京都長期計画」による東京臨海副都心構想の具体化による東京発の不動産取引が活発化しました。

 

日本中が株価上昇に浮かれていた頃の1989年、大蔵省の操り人形と称されてきた澄田日銀総裁が退任しました。

そして、「株に手を出したことがない」と周りに自慢していた日銀生え抜きの三重野さんという人が日銀総裁に就任しました。

当時日銀は大蔵省の言いなりで、日銀総裁を大蔵省の人から選ぶのが普通でした。

そんな背景から、日銀でずっと働いてきた三重野さんが総裁に選ばれるのはすごい珍しいことでした。

この三重野日銀総裁・・・実は「バブルが日本経済に悪影響を与えている」と、ずっと一人で言い続けていた人でした。

というのも、土地の価格があまりに高くなりすぎて、普通のサラリーマンではとてもじゃないけど家を買うことが無理な状態になっていたからでした。

 

三重野さんは日銀総裁になると早速バブルをしずめようと・・・

今までの「金利をわざと低くすることでみんなが借金をしやすくして、株を買ったり不動産を買ったりしている人を応援する方針」を180度変えて、1989年5月と12月、日銀は2回も金利を上げました。

金利を上げて借金の利息を増やすことで、株や不動産を借金してまで買っている人の目を覚まそうとしました。

 

ただ、金利を上げた直後は何の効果もなく、みんな株に夢中のままでした。

日経平均はその年の年末、史上最高値38915円97銭に達しました。

しかし、年が明けた1990年1月末になると、日経平均株価は最高値から2000円下落・・・

ついに雲行きが怪しくなってきました。


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