Hello, AMPs

ダジブロ

お金 、健康 、芸能、スポーツ、漫画 、オリジナル小説について記事を書いています!

日本バブル経済 ~その7~


スポンサードリンク

 

 

バブルの沈めた日銀

1990年3月、当時大蔵省銀行局長を務めていた土田正顕が、土地の価格を落ち着けるために、「企業にお金を貸す以上に不動産で儲けるためのお金を貸してはいけない」という内容の「総量規制*」と呼ばれる決まりを作りました。

 

*具体的に言うと「不動産向け融資の伸び率<総貸出の伸び率にしなければいけない」という内容です。

 

「これ以上不動産で儲けたいという企業への融資はしてはいけない」という総量規制という決まりのせいで、銀行はとっても困りました。

というのもお金の貸さないと、金利収入が増えないからです。

ただ大蔵省の総量規制には、実は抜け穴がありました。

というのも、(銀行はダメだけど)住宅向けにお金を貸す専門の「住宅金融専門会社」略して「住専」であれば、総量規制の対象外でした。

つまり、住専だけはいくら不動産にいくらお金を貸しても大丈夫だという抜け穴を(わざとかはわからないけど)残しておきました。

 

不動産にお金をこれ以上お金を貸かせなくなって困った銀行は、住専に自分たちの不動産融資をそのまま肩代わりさせました。

住宅金融専門会社、略して「住専」は、元々、1970年代に大蔵省が「日本の国民の住宅ローンを融資する」ことを目的に設立した金融機関でした。

「誰に貸して誰に貸さないか?」を判断する貸付ノウハウがないといけないので、大蔵省を先頭に大手銀行がそれぞれ共同出資&協力して設立しました。

三和銀行が出資した「日本住宅金融」、第一勧銀と富士銀行による共同出資で作られた「住宅ローンサービス」、興銀や日債銀による「第一住宅金融」、農協中央金庫と農協系の「JAバンク」、及び銀行7社による「協同住宅ローン」・・・などなど、日本の銀行がそれぞれ集まって合計8社の住専が設立されました。

 

と、こんな感じで、「銀行が貸していた不動産融資」を移したり、「銀行ではあまりお金を貸したくないけど、貸さないと色々まずい・・・」というお客さん(主にヤクザや暴力団)を住専に紹介していました。

ヤクザや暴力団をはじめ、実際にお金を返せないとわかっている融資の焦げ付いたお客さんを住専にすべて押し付けることで、銀行はうまく総量規制に(おもてむきは)対応していました。

ただ、住専がお金を貸している人は、銀行ではお金を貸せなかった人がかなり多かったということが、後々大きな問題になっていました。

 

ついに暴落する日本

日銀の三重野総裁が金利を上げる・・・

大蔵省が総量規制で不動産向けの融資を抑制・・・

これだけやっても1990年前半までは、不思議と不動産価格が下がりませんでした。

 

そこで三重野日銀総裁は、「不動産価格を20%下落させたい」と公言しました。

そこからさらに5回にわたって金利を上げて不動産価格を下げようとしました。

その結果、1990年8月には(銀行融資の金利の元になる数字である)公定歩合は6%に・・・。

 

銀行預金の金利も、普通預金で2%、定期預金は1988年に3.3%だったのが一気に6%まで上がっていきました。

(1番低い金利でお金を借りることのできる政府の借金の金利である)日本の長期国債利回りはなんと7%を超えました。

その時、株の平均配当利回りはたったの0.5%*。

 

*その価格で株を買って一年間株を持っていると、その時の株価の0.5%分の配当もらえるという意味です。

 

「普通に貯金していれば最低で2%、定期預金すれば何もしなくても6%もらえるのに、なんで株を買わないといけないの?」

 

と思う人がドンドン出てきました。

株式市場はここから一気に崩れだしてしまいました。

 

突然株価が下がりだしたのを見て、証券会社は信用取引の委託証拠金率*を70%から50%に引き下げました。

 

*お金を株を買いたい人にどれだけ貸すか?の割合。

信用取引といって、株は証券会社から借金をして自分の持っているお金以上に買ったり売ったりすることができるのです。

 

委託証拠金率70%なら100万円で約142万円(42万円は証券会社が貸す)委託証拠金率50%なら100万円あれば200万円まで株を買うことができます。

 

数日後には日経平均はさらに1200円下落しました。

大蔵省の圧力で、株価が回復するまで証券会社は、株式の発行だけではなく、転換社債、ワラント債など「株価を下げる要因になる証券の発行」を停止すると発表しました。

にも関わらず、その直後日経平均は2年ぶりに3万円台を割り込み2万円台に・・・ついに東京証券取引所の時価総額がニューヨーク証券取引所を下回りました。

 

1990年9月、日経平均がついに2万円を割り込む

すると、大蔵省は証券会社に自己勘定、つまり証券会社自身のお金で株を買い支えるように圧力を掛けました。

証券会社は委託証拠金率をさらに30%に引き下げてもっとお客さんが借り入れして株を買いやすくしました。

大蔵省は生命保険会社に株式の売却を停止するように必死に声をかけると同時に、公的年金と郵便貯金のお金を使って株を買ったりと、あの手この手で株価を維持しようとしていました。

 

株価と不動産価格が大きく下がりました。

バブルの崩壊が誰の目にも見て明らかになってくると、日本企業はバブル絶頂期に法外な値段で買い漁った「ロックフェラーセンター」をはじめとする海外資産を損失覚悟で安値でたたき売り始めました。

景気が悪化しはじめて、バブル時代に低金利で借り入れて行った、必要以上の設備投資の借金返済に追われて、日本企業は苦しむようになりました。

バブル時代に凄い含み益を抱え、銀行の資本金を水増ししていた株式持ち合いは、1990年になってから一気に含み損に変わりました。

 

資本金が大幅に減ったことで、銀行は「融資を急いで減らすか?」「国際営業の免許を取られるか?」の選択を迫られることになりました。

「資本金の12.5倍が融資できる上限である」という「BIS規制」のせいで、資本金が減ることで融資できる量が減ることで、貸しているお金を今すぐ返してもらう必要が出てきたからです。

 

1992年、ついに日経平均が1万4309円と底値へ

大蔵省は、機関投資家に株式売却を思い止めさせるために、企業が株式による含み損が表面化しないように会計法を変更しました。

 

※銀行に低価法による株式の含み損の形状を1年先送りし、事業法人には株式の時価での評価変えを義務付けないことが定められた。

 

株価が大きく下がったことに加えて、1992年末には東京中心部の不動産価格は、バブル絶頂期のピーク時の価格から60%下落し、銀行からお金を借りて不動産で儲けようとしていた人たちの中から、お金を返せなくなって破産する人や企業が続出しました。

どの銀行も不動産を担保に巨額の融資をしていたので、不動産下落とともに銀行の不良債権問題(返してもらえなくなったお金をどうするのか?という問題)が表面化し始めました。

 

こうして

 

・株価下落によって自己資本が大幅に減少し、それに応じて融資を縮小する必要が出てきたこと

・不動産価格下落で、大量に貸しこんでいた不動産向け融資が回収できなくなったこと

・大蔵省による総量規制ですぐに不動産向け融資を減らさなければいけなかったこと

 

のトリプルパンチで金融業界は大ピンチに陥りました。

 

その結果、銀行による担保の追加や貸し剥がしが横行し、銀行が融資をすると約束していた企業も突然お金を借りれなくなり、従業員に給料を払えなくなってそのまま倒産する企業がいっぱい出てきました。

さらに突然お金を返せと超強引な手を使ってお金を返済させられる通称「貸し剥がし」がいっぱい起こりました。

 

「返済するのは来年の約束なのに・・・」

 

という企業も、その場で全額返済することを強制されて、担保に入れていた工場や不動産などを銀行に無理やり取り上げられてしまう企業が続出しました。

 

この「貸し剥がし」で、たくさんの中小企業が倒産に追い込まれました。

不動産や株を売っても借入金を返済できない企業はそのまま破産&倒産しました。

不動産価格があまりに値下がりしていたので、ほとんどの企業は不動産を売っても銀行からの借入金を返すことができませんでした。

こうして金融機関は無理やり貸し剥がしをしながら、巨額の不良債権(返してもらえない借金)を抱えることになりました。

借入金の返済を求められた企業は、返済を迫られたのがあまりに急だったので、無理やり株式や不動産を売って借入金を返済するしかありませんでした。

 

日本中が株や不動産を担保にお金を借りて、不動産や株を買っていたので値上がりしていました。

しかし、銀行が大蔵省による規制をきっかけに借金返済を迫ったので、その借金を返すために皆が一斉に株や不動産を売りに出しました。

 

こんなふうにますます株や不動産の価格は下がり続けました。


スポンサードリンク