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ミシシッピバブル


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世界三大バブルの一つと言われている18世紀初頭のフランスで起きたミシシッピバブルについてご存知でしょうか?

 

フランス革命が起こる約70年前、  ルイ15世さんの絶対王政時代にフランスで起きたバブルのお話です。

当時のフランス国民はある男が考えたミシシッピ計画という大計画を信じていました。

 

その男の名はジョン・ローさん。

 

ローさんはスコットランドで金細工職人・金融業者として成功していた父親の家庭で生まれました。12歳で父親が亡くりましたが、かなりの遺産が転がりこみ、生活には困りませんでした。

14歳になると、銀行で働きながら金融や銀行業について学び、17歳の時、銀行業を辞め、オランダ、ドイツ、ハンガリー、イタリア、フランスを放浪しながら、確率論を駆使するプロのギャンブラーとして生活していました。

26歳の時にイギリスにいたのですが、恋人をめぐって相手男性を殺してしまい、投獄され、早々に死刑判決を受けてしまいます。

 

しかし、監獄から脱獄し、イギリスから指名手配されることになりました。

海外を転々としながら、スコットランドに戻りました。

これまで学んだ自分の知識とアイデアを実現したかったローさんはスコットランド議会に国営銀行の設立を提言しましたが、スコットランド政府から却下されてしまいました。

そんなこんなで、また各国の財務の勉強とギャンブルのために海外放浪の旅に出ていました。

 

自分の編み出した金融スキームの採用者を探すべく、放浪を続けるローさんに幸運が訪れたのは1715年のことでした。

フランスに移ったローさんのアイデアについて、オルレアン公爵ルイ・フィリップ1世さんが並ならぬ関心を持ち、そのまま採用に踏みきりました。

当時のフランスは、長く続いた外国との戦争の費用負担で国家財政が疲弊し、事実上の破綻状態でした。

破綻した財政を再建するため、オルレアン公爵さんは、一見奇抜だが、極めて斬新に見えたローさんの金融スキームを採用し、起死回生のチャンスに賭けました。

ローさんの編み出した金融スキームとは、まさに国家レベルでの見事な錬金術と言うべきものでした。

 

フランス国民はローさんが作ったミシシッピ会社に熱狂していました。

しかし、このミシシッピ会社は何も事業実態のない現在でいうペーパーカンパニーでした。

バブル崩壊と共に倒産したミシシッピ会社の株価は暴落し、国民には大借金だけ残りました。

 

人々は何故、ミシシッピ会社に熱中したのでしょうか?

そして、何故このようなバブルが起こったのでしょうか?

 

まずその原因を作ったルイ14世さんの絶対王政の頃のフランスから紐解いていきます。

その頃のフランスは王族の浪費、ヨーロッパの他国との戦争、貴族の年金やらで、国民総生産の1.5〜2倍という大きすぎる借金を抱え、フランスの財政は危機的状況に陥っていました。

この頃にあのベルサイユ宮殿の建築がされました。

 

その君主にいた人物こそ、ルイ14世さんでした。趣味のバレエで太陽に扮したことから太陽王と呼ばれていました。

ハゲを隠すためにかつらをつけたり、自分の歯を全て抜いたりとハチャメチャな王でしたが、何よりもとんでもない浪費家でした。

そのエピソードの一部をご紹介します。

 

  • 毎日のご飯を300人の宮廷料理人に大量に作らせて、大半を食べずに残すのは当たり前の日々。

 

  • 世界中の芸術作品を国家予算で集める。

国内最高の造園家、画家、家具職人を集め、ベルサイユ宮殿を始めとする多くの宮殿を建築。

ちなみにベルサイユ宮殿の総工事費は700万リーブルです。現在価値にすると約400億円ですが、当時国民は、食べるのにも困っていたくらいなので、怒りの度合いは金額以上だったかもしれません。

 

  • 侵略戦争をやりまくった。

アメリカ新大陸やインドにおける植民地戦争を経て第2次百年戦争、南ネーデルラント戦争、仏蘭戦争、プファルツ戦争、スペイン継承戦争等とにかく他国を侵略しまくりました。

 

国民が食べるものにも困るような悲惨な日常を送る中王の側近や摂政では、賄賂や不正が日常的に行われ、政府は完全に腐敗しきっていました。

こんな状況がルイ14世さんの王政50年間もの間も続いてしまったので、フランス国民の怒りは頂点に立っていました。

 

1715年、フランスの財政を滅茶苦茶にしたルイ14世さんが死にました。その年、わずか5歳でルイ15世の座に就いたアンジュー公さんですが、フランスの財政は既に破綻状態でした。

 

年間の歳入は1億4500万リーブル、一方で歳出は1億4200万リーブルでした。

ルイ14世さんの贅沢グセが高級役人から下級役人に至るまで蔓延していて、借金の残高は30億リーブルと歳入の20倍に達してしまいました。

 

毎年300万リーブルしかお金が余らないのに、そこからさらに借金30億リーブル分の利息も払わないといけない状態でした。

当時のお金は今のようなお札と違い、金貨と銀貨だったので、お金が金と銀をどこかで発掘しなければいけませんでした。

一部の高級役人の中には、「もう国民に借りたお金は返せません」と正式に国家破綻を宣言した方が良いという人も出てきました。

国民にこれでもかってくらいの重税を課すだけではお金が足りません。

いうことで、ルイ15世や摂政は悩みぬいた末、こんなことをしました。

 

“国民の持つ金貨や銀貨の純度を薄めた金貨と銀貨に交換“

 

ルイ15世さんと摂政は、国民から当時の通貨であった金貨などを無理やりに回収して、金と銀の成分を25%削って薄めた状態の「新しい硬貨」と交換しました。

国民から集めた金貨と銀貨を25%薄めて交換した金と銀を使って、また新しい金貨や銀貨を作り、それで贅沢や戦争するための費用にしました。

 

また、硬貨を薄める以外にも、隠し財産を持っている人を宮廷に密告すれば、彼らから財産を取り上げと罰金を課して、そのうちの20%をご褒美として密告した人に渡すというチクリをオススメする制度まで作ってしまいました。

 

(とはいっても一般国民に隠し財産なんていうものはなく、実際は不正や汚職が蔓延していた宮廷と摂政の役人をターゲットにした制度でした。あまりに汚職がひどかったため、凶悪犯を取り扱うナンバーワン刑務所のバスティーユ監獄はすぐに囚人を収容しきれなくなっていました)

 

このチクリ制度の導入で、なんと1億8000万リーブルもの大金が集まりましたが、国債の返済にあてられたのはたったの8000万リーブル。

残りの1億リーブル宮廷内の実力者のお財布に直行してしまいました。国民が重税のせいで食べるものすら無いときに、硬貨を薄めることを何回も行ったため・・・ついに国民がブチ切れました。

 

ルイ14世さんが死んで5歳で王になったルイ15世さんがフランスの舵取をするタイミングから国民が露骨に怒りを露わにするようになりました。

怒った国民は、「暴君だ!」の偽善者だ!」の「略奪者だ!」ので国王の像を叩き壊したり、街で暴れ出しました。

ルイ15世さんや摂政は困り果てていました。

 

そんなときに現れたのが・・・ジョン・ローさんでした。

海外を放浪しながら、どうしても有名になりたかったローさんはオルレアン公爵ルイ・フィリップ1世さんに買われていました。

 

ローさんはこんなフランスの宮廷に乗り込み

 

「硬貨だけで紙幣を使わない国は商業国として極めて不適切である」

 

と進言しました。

当時、世界中がお金として金貨や銀貨を使うのが当たり前だった中、今のように紙幣をお金として使うことをオススメしたのが、実はジョン・ローが世界で初めてでした。

こんな突然現れたナゾの男の話をまじめに聞かなければならないほど、ルイ15世さんや摂政はお金がなくて混乱していました。

ローさんは、これを有名になるチャンスだと思って、過去に自分が書いた金融や貿易の論文を急いでフランス語に翻訳、財政家として名を売ろうとしました。

 

その結果、ローさんはルイ15世さんと仲良くなって、「バンク・ジェネラール」という政府認定の王立銀行を作り、国民から金貨を預かってローさんが発行する王立銀行券という紙幣を通貨として使用できる権利を獲得しました。

然現れたナゾの男」わたけど、という、で、お金が無いなら税金を取これはフランス宮廷が正式に認めた国立の銀行であり、今でいう国の中央銀行のようなものでした。

 

ローさんは、当時のお金であった金貨と銀貨などをローさんの王立銀行に預けると、「その金貨や銀貨を預かりました」という証明書として、銀行券という証券を発行して渡すことにしました。

王立銀行の設立資本金として600万ルーブルを一般から集め、その支払い資本金に対して1200株の株式、つまり一株5000ルーブルの株式を発行することを計画しました。

価格5000ルーブルは4回の分割払いで、しかも最初の1回目だけ現金で、残りの3回は手形(厳密にいうと借用証書)でOKとしました。

1716年5月に最初の株式が発行され、民衆は即座にこれに飛びつきました。

 

このローさんが発行した銀行券は、宮廷の許可で納税もできましたので、すぐに一般国民も買い物で使うようになってきました。

この時期、金貨や銀貨などの硬貨は摂政のせいで、翌日には1/6も価値が減っているというようなことが平気であった状態で、ローさんの証券は発行時の価値を維持し、それだけではなく、金貨や銀貨などの正貨の1%高い値段で買われるようになりました。

ピーク時には、なんと正貨である金貨や銀貨よりも15%高い価格で取引されるようになりました。

 

つまり、国王のルイ15世さんが正式なお金としている金貨や銀貨よりも、価値があるとみんなに信じて貰えたのです。

ローさんの銀行券は金貨と銀貨の引換証にしか過ぎないにもかかわらず、実際の金貨と銀貨よりも高値がついたことが人気の凄さを物語っています。

ローさんの銀行券が人気になる一方でこの時期、金貨と銀貨の人気が落ちただけでなく、ルイ15世さんがお金を借りたという証明書の国債価格は78.5%も値下がりしてしまいました。

それほど、当時誰もルイ15世さんがお金を返してくれるとは思っていなかったということです。

 

あまりに交換した金貨か銀貨の純度を薄められるので、国民からは交換された金貨や銀貨は信用されておらず、お店で何かを買い物するのも大変なくらい混乱していた一般市民の生活はローさんの銀行券のおかげで正常に戻りました。

 

そんなことで、スコットランド人のローさんはルイ15世さんや宮廷だけではなく、フランス国民からも敬愛される財政家としてその名を知られるようになりました。

 

しかし、そんな絶頂のローさんですが、大変なことを起こしてしまいます。

ローさんは王立銀行設立当初、国民の人が持っている金貨と銀貨以上の銀行券は発行してはいけないとこれを固く守っていました

 

しかし、ルイ14世さん時代の放漫財政による財源不足から、実際は正貨になりつつある「ローさんの銀行券を発行しろ!」というルイ15世さんや摂政から圧力が凄まじく、いつの間にか金貨と銀貨以上の銀行券を発行してしまったのです。

 

これだと金貨と銀貨の引換証であるはずの銀行券の数の方が、実際に保管してある金貨と銀貨よりも多くなっているので、銀行券を持つ人全員が、銀行券と金貨の交換に来た瞬間に王立銀行が破綻してしまいます。

その上、国の借金も膨らんでいましたし、この借金も返していかないといけません。

 

そこでこの事態にローさんは以前から温めていたある一つの計画を実行することにしました。

それが「ミシシッピ計画」というものでした。

ローさんは、自分の言うことにノーと言えなくなったルイ15世さんや摂政に、ミシシッピ会社という「アメリカのルイジアナ州との独占貿易権」を有する会社設立を提案しました。

 

当時、フランスの植民地であった今のアメリカのミシシッピという場所に、びっくりするくらいの大量の金銀財宝が埋まっており、さらに異国と貿易することで莫大な利益が見込めるとローさんは宮廷に語りました。

とにかくお金がなくて困っていたルイ15世さんを始めとする宮廷は、ローさんにミシシッピとの貿易権とその収益事業権を政府から正式に独占付与された会社として、ミシシッピ会社が作る許可を与えてしまいました。

 

そして、ローさんは「夢がいっぱい詰まったミシシッピ会社の株」を、宝クジのように一般国民に向けて販売することにしました。

ローさんのミシシッピ会社による金と銀の採掘事業は、おのずから話題を呼び、投資家の期待は高まりました。

ミシシッピ会社がついに採掘事業を開始するというニュースが伝わるや、株を求める投資家が殺到し、ミシシッピ会社の事業は、果てしない拡大を続けてゆくように思われていました。

株を売るにあたって、ローさんはミシシッピ会社株を保有することの魅力を大々的にアピールしました。

いかにミシシッピ株が儲かるかをローさん自ら力説し、配当利回りが高く設定されることはもちろん、買いやすいように既存株主へ割安で販売し、ローさんの銀行券での分割払いでの支払いもOKのローン販売をあらゆる方法で市場から資金を回収しようと試みました。

さらにすでに株を持っている人を相手に株を担保にお金を貸すことまでしてしまいました。

 

さらにミシシッピとの独占貿易権だけではなく、ローさんは宮廷から様々な特権を貰って、最終的には

 

  • 西インド諸島との奴隷貿易
  • タバコの専売権
  • 正貨である金銀の独占精錬権
  • 紙幣を作る造幣局
  • 税金を取り立てる徴税会社
  • 王立銀行

 

をミシシッピ会社の傘下に治めました。

 

ちなみに、ミシシッピに金銀財宝があるとか、他の国との貿易ですごいお金が儲かるとローさんが熱弁したことには、何の根拠はありませんでした。

しかし、国民や宮廷は、この夢物語を信じました。

 

しかし、そもそもミシシッピ会社の株を売り出してローさんは何をしたかったのか?

 

ローさんは、国が抱えるあまりの借金の多さに悩んでいました。

そこでローさんは、国債を持つ国民に「ミシシッピ会社の株を国債」で売ることで、国民が持っている国債とミシシッピ株を交換しよう目論みました。

ミシシッピ株を国民がすでに持っている国債でミシシッピ株を買ってくれれば、国民が持つ国債の数は減り、国の借金もあっという間に解消できるのでは?と考えたのです。

 

国にお金を貸している人にお金を返す代わりに「ミシシッピ会社の株をあげます」という「国債とミシシッピ会社の株の交換をします」と持ちかけたのです。

ミシシッピ会社の株は大ヒットになりました。

ローさんおよびミシシッピ会社に対する投資は過熱を極め、パリ証券取引市場では、ヨーロッパ中から殺到した投資家の混乱を制御するため軍隊まで出動しました。

 

ローさんはみんながそんなに株を欲しがるなら、株の数をもっと増やして売ってしまえば良いと考えました。

誰もがミシシッピ会社の株を求め、株価の正常性について疑問を投げかける投資家はほとんどいませんでした。

 

しかし、ミシシッピ会社には何の売り上げや活動はなく、ただのペーパーカンパニーでした。

その上、国民はミシシッピに金銀が眠っていることや貿易で儲かるということは何もわかっておらず、あくまでもローさんがそうなのではないか?と言っただけという状態でした。

にもかかわらず、ミシシッピ株を欲しがる人は凄まじい数でした。

ミシシッピ会社の株価は跳ね上がって、最初に売りに出した株だけだと、欲しい人が多すぎて全然足りなくなりました。

なので、もっと株の発行枚数を増やせば、国の借金を返せると考えてどんどん株を発行していきました。

 

これによって、

  1. ミシシッピ株価が上がるほど、銀行券の発行数が増える(株価が上がった分だけ融資できる金額が増えるので発行銀行券の数が増える。銀行券の価値の裏付けとなる硬貨の量は変わらない)

 

  1. さらに国民中がミシシッピ株を売買することに夢中になっており、株は買った瞬間に値上がりする状態だった。お金を手に入れた瞬間に「お金を借りて他の人が持っているミシシッピ株を買う」ので、銀行券の発行数が増えるほど、株価が上がる

 

  1. 株価が上がるほど、ミシシッピ株を新しく発行した時、国の借金を減らすことができる(株価が100円の時は、国債100円分と交換。株価が200円なら、国債200円分を回収できる)

 

という株価が上がるほど国民も政府にとって利益が得られるという仕組みが出来上がってしまいました。

 

1718年12月、ローさんは王立銀行の初代頭取になりました。

ローさんはもともと銀行券の発行量と、王立銀行に保管してある硬貨の量を近づけようと摂政に忠告していましたが、(国民が銀行券→金貨と銀貨の交換に来られると応じられないので)、ミシシッピ会社の株価が上がれば上がるほど、(株を担保にした融資で銀行券の発行量も増えるので)銀行券の発行量を増やさざるをえない仕組みにしてしまいました。

 

ローさんのPRの効果もあり、ミシシッピ会社の期待は膨らんで株式価格はみるみる上昇しました。

このブームはフランスのみならず、ヨーロッパ中から流入したもので、王立銀行総裁ローさんの周りには、株式を売ってもらおうと各地から人が参詣に訪れたと言われています。

それほど、国中がミシシッピ会社株に熱中しました。

ミシシッピ株の売り出し当初1719年に500リーブルだった株価が、1720年頭には10,000リーブルとなんと20倍にも跳ね上がりました。

 

ルイ14世の重税と戦争で苦しんだ時代に比べると、あまりにもローさんのおかげでフランスの景気や暮らしが良くなってしまい、ローさんは国王を超える英雄になっていきました。

貧乏人から、国の役人とお金持ちまで株の売買に関わっていない人はいなくなっていました。

神父さんまでもがミシシッピ株に密かに夢中になっていました。

何かよく分かんないけど、価格がみるみる上がっているし、「乗るしかない、このビッグウェーブに!」って感じでみんなお金を突っ込み、ますます価格が上がってさらに金が突っ込まれるという状態に突入していきます。

 

ローさんの自宅のあるカンポワ通りという場所は連日何千人もの群衆がやってきて押し合いへし合いをするような状態でした。

ローさんの自宅には、ローさんからミシシッピ株を売ってもらうための行列が連日できて、周辺の不動産価格は跳ね上がっていました。

あまりに連日、大衆が押し寄せてくるので、ローさんは、こんな状況にうんざりして引っ越しましたが、引越し先もすぐに同じ状態になってしまいました。

ちなみにこのミシシッピバブルの最中、ローさんの住んでいたカンポワ通りの家賃は年間1000リーブル程度だったのが、なんと1万2000〜1万6000リーブルという10倍以上に跳ね上がり、靴屋さんなどは、靴屋をたたんで相場師の人たちに家を貸し出していました。

 

首都のパリでは、かつてないほど豪華なオブジェがあふれていて、彫刻や絵画、タペストリーが海外から輸入され、あっという間に完売していました。

豪華な家具屋装飾品も、代々お金持ちの貴族だけではなく、普通の商人や中流階級の家でも普通に見られるようになるほどすさまじい景気でした。

 

フランスにやって来た外国人はいっぱいお金を使ってくれたので、フランス国内で、豪華な服やその生地、パン、肉野菜などの食料品の価格までとんでもなく上がるインフレ状態でした。

それに釣られて、フランス国内で働く人の給料だけではなく、フランス全土の住宅価格も上がり建築ラッシュを迎えました。

 

カンポワ通りは相場師のたまり場になり、事故や事件がいっぱい起きました。

その上、群衆目当てに泥棒や乱暴者がよってきて、連日兵隊さんも送り込まれたりで暴動状態でした。

ミシシッピ株を買うために、大量の現金を持ち歩く人が増え、彼らを狙った殺人事件や強盗事件が相次ました。

 

1719年にはローさんは王室に12億ルーブルを貸し付けた見返りに徴税権まで請け負います。

これは、王室の債務までミシシッピ会社に一本化し、税収も投資も全て一本化されたことを意味しました。

株価が上がる限り、国の借金は無くなっていくし、それにつれて流通する銀行券の量も増えていき、みんながお金持ちの状態になっていました。

過剰に紙幣を増刷すれば、国はいずれ破産に追い込まれるという高等法院の警告も無視すらしていたのです。

 

※高等法院(こうとうほういん:当時のフランスの司法を司っていた機関。司法以外の制作にも大きな影響力を持っていた)

 

しかし摂政は、紙幣を刷ってこれだけ良い影響をもたらしたのだから、刷れば刷るほど良いと考えていましたし、それをローさんも止めませんでした。

そんなこんなで、ミシシッピ会社の株価が上がるたびに紙幣も増刷され続けました。

 

しかし、投資の対象にされたミシシッピ会社が高い収益を上げていたかというと、全然そうでなくむしろ極めて業績は悪く、ほとんど利益を上げられていない状態でした。

実体経済が伴っていないのに株価だけが上がり続ける、まさにバブル経済でした。

 

こんな状態が続きましたが、1720年初頭あるきっかけに大変なことになりました。

1720年、絶頂のローさんは財務長官に任命されました。

しかし、その年の初頭、ミシシッピ会社の新株購入を断られたある貴族がローさんに怒って、持っていた銀行券や国債などの証券をローさんの王立銀行ですべて金貨や銀貨に換金してしまいました。

株を買えなかったローさんを憎む人や、元々ありえないほどの株価上昇に不信感をもっていた株式の仲買人などが、ローさんの銀行券やミシシッピ株を金貨や銀貨に変えて海外に持ち出すようになってしまったり、10000ルーブルに上がった株は売りに出して利益を出そうという人が出てきました。

それまでは、ローさんの銀行券と金貨と銀貨の交換に困ることなんて全くありませんでした。

しかし、普通の市民までもが、これがずっと続けば金貨と銀貨が不足することに気がつき出したようで、金貨と銀貨に自由に交換できないことにあちらこちらから不満の声が上がるようになりました。

 

ローさんはこのことを摂政に文句を言って、金貨や銀貨の2/3を王政銀行に戻すように命令を出しました。

そしてローさんはついに金貨や銀貨の価値を紙幣よりも5%切り下げることを発表しました。

しかし、それでも多くの人が紙幣を金貨や銀貨に交換しようとするので、今度はさらに10%、金貨と銀貨の価値を切り下げました。

つまり銀行券一枚で交換してくれる金と銀貨の量を少なくしたということです。

 

それでも銀行券を交換する人が絶たなかったので、銀行での紙幣→金貨と銀貨への交換も厳しく制限しました。

正貨である金貨や銀貨との引換券であるローさんの銀行券を王立銀行に持って行っても、金貨や銀貨が手に入らなくなってしまったということです。

(なぜなら銀行の金庫には、すべての引換券と交換出来るだけの金貨や銀貨がないから)

 

一般の人も、金と銀貨の預かり証であったローさんの銀行を持っていても硬貨と交換できないと知って、手元にある金貨と銀貨をイングランドやオランダにこっそり運び出したり、家の中に隠すようにしました。

こうして硬貨が足りなくなってきた上に、誰もローさんの銀行券を受け取ろうとしないので商業活動にも問題が出てきてしまいました。

 

1720年5月、ローさんはこれを見て、ついに「正貨である金貨や銀貨の使用を完全に禁止」にしてしまいました。

ローさんの銀行券の信用を回復させるためにこの命令を出しましたが、このせいで、誰も銀行券でモノを買うことができなくなってしまいました。

 

モノを買おうと思っても、お店が銀行券を受け取ってくれないくらい信用がなくなってしまいました。

さらに国民が金貨や銀貨で500リーブル以上持っていると、違反扱いにされるというとんでもない法律まで作ってしまいました。

 

そんなこんな大混乱が起きる中・・・ついにミシシッピの株価は暴落してしまいました・・・

 

1719年には10000リーブルあったミシシッピ株価が、売り出し価格だった500リーブル以下まで暴落してしまいました。

 

 

*青線がミシシッピ株価

 

ミシシッピ会社の株価はわずか半年〜1年で1/20になってしまいました。

バブルが弾けて、ミシシッピ株を買っていた国民の生活はどん底に落ちてしまいました。何せ国中の人が借金をして株を買っていたので、全財産を失うばかりか、借金だけ残る人がいっぱい出てきました。

その上、お金であるローさんの銀行券を持っていても買い物も満足にできませんでしたし、銀行に行っても正貨である金貨や銀貨とも交換できない状態だったので国中が大混乱でした。

 

暴落するミシシッピ株価を支えようと、政府は最終手段に出ました。

「ミシシッピ計画が本当にあるんだぞ!」ということを見せつけるために、パリに住むお金のない下流層や貧民層6000人を無理やり集め、徴兵命令を出したのです!

 

さらに、彼らに金鉱で働かせるための作業服と道具を持たせ、ミシシッピ行きの船に無理やり乗せてアメリカに作業員として送り込こみました。

しかし、彼らの2/3はひっそり脱出したり逃げたりしてフランス国内の田舎で支給された道具を売り払って元の貧乏な生活を送っていました。

残りの1/3の人々が、3週間後にはフランスに戻ってきたのをきっかけにミシシッピ計画が「実は本当なんじゃないか」と信じる人が出てきて、ミシシッピ株価はちょっとだけ上がりました。

しかし、信じ続ける人は少なく、結局、株価はその後も下がり続けてしまいました。

 

最終的にきちんと計算してみたら、流通していたローさんの銀行券の量は、「正貨である金貨や銀貨の2倍以上の量」になっていました。

元々は、「正貨である金貨と銀貨と紙幣(ローさんの銀行券)の流通量を同じにすることが極めて大事」だと主張していたローさんが、お金に困る政府や国民の雰囲気に流され、預かった金貨と銀貨の2倍もの紙幣を発行してしまったのです。

 

1720年の7月、ついにローさんの王立銀行は紙幣と正貨の交換を完全に停止にしました。

あれほどローさんを信じていたルイ15世さんと摂政は、ローさんが作った王立銀行の収益をローさんから取り上げて、銀行券の価値を無理やり半分にするという裏切り行為をしました。

財務に関する会議で、摂政が呼ばれると、自分たちがローさんに銀行券を刷るようにさんざん圧力をかけたにも関わらず、全てをローさんに責任転嫁し、そのままローさんはすべての責任を押し付けられる形で財務省をクビになりました。

 

国民もローさんに怒り狂っており、ローさんは常に身の危険がある状態だったので、摂政の助けでイギリスに亡命(忘れている方もいると思いますが過去の殺人については赦免されました)し、ローさんはすべての財産を国に没収されてしました。

 

ちなみに、ローさんはミシシッピ計画でフランスがヨーロッパ一の富裕国になることを最後まで信じていました。

その証拠として、ローさんは他の汚職にまみれた役人と違い自分の財産を海外に移したりすることはせず、全財産をフランス国内に投資していました。

なので、フランスから出て行く時は本当に無一文でした。

 

その後は、フランスに呼び戻されることを期待しながら、ギャンブラー生活を再スタートしましたが、結局お声は掛からず、イギリスに住み、ベネチアに渡り、多額の借金を抱えて1729年にこの世を去りました。

 

ちなみにローさんの墓にはこう記されています。

 

高名なるスコットランド人

計算高さでは天下一品

わけのわからぬ法則で

フランスを病院に送った

 

当時は詐欺師の極悪人としてヨーロッパ中に知られていたローさんも、現代においては近代金融の概念を作った偉大な金融家として知られています。

 

悪かったのは

ローさんなのか・・・

放漫財政を続けた歴代ルイさんなのか・・・

腐敗や不正にまみれた政府なのか・・・

実態がないにもかかわらず株の売買に夢中になった一般国民なのか・・・

それとも絶対王政という政治体制なのか・・・

 

しかし、ローさんは腐ったフランスを自分で変えたかったという野心を持っていたことは間違いないと思います。

その後ミシシッピ会社は、株価の暴落とローさんの銀行券のシステムが壊れてしまった1721年に倒産し、1722年に会社を一から作り直して再スタート、翌年の1723年にはルイ15世さんからタバコやコーヒーの専売権や、国発行の宝くじを催行する権利を与えてもらい復活を遂げました。

 

その後もフランス政府の腐敗や放漫財政は無くなること続き、ミシシッピ計画破綻から約60年後、ついにフランス革命により、絶対王政という長年続いた社会制度がフランスで幕を閉じることになりました。


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