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南海泡沫バブル


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世界三大バブルの最後は18世紀初頭のイギリスで起きた南海泡沫バブルをご存知でしょうか?

 

18世紀のヨーロッパでは各国がおのおのの権力拡大のため積極的に領土拡大政策を採用していました。

その結果、ヨーロッパ中に戦火が広がっていました。

ヨーロッパ全土を巻き込み、熾烈を極めたスペイン継承戦争、イギリスとフランスの間で植民地を奪い合ったアン女王戦争。

これらの戦争は後にジョン・ローという男によって、財政難をキッカケに国ごとミシシッピ計画へと導かれたフランスのみならず、同時にイギリスをも財政的に窮地に陥れていました。

そのような状況の中、破産者や自殺者を多数生み、後に「バブル」経済の語源となる大事件がイギリスで起きました。

 

その名も南海泡沫会社事件。

 

ここでその事件の発端となった二人の人物を紹介します。

 

南海泡沫会社事件を引き起こした人

イギリスで貴族と政治家オックスフォード伯爵、本名はロバート・ハーレーさん。

トーリー党という政党で党首をやっており、今回騒動の中心となる南海会社はイギリス政府があまりにお金がないので、ハーレーさんの発案で作られた会社です。

伯爵というのは貴族の身分の位のことで、5段階あるうちの3番目に偉いことを示す役職名です。

上から偉い順に、「公爵」、「侯爵」、「伯爵」、「子爵」、「男爵」というランクです。

 

ジョン・ブラントさん。負けん気が強く、とにかく金と権力が大好きな人でした。

そのためには手段を問わない男だともっぱら評判でした。

ハーレーさんに南海会社の社長になってくれと頼まれました。

 

17世紀のイギリス経済

しかし、まず南海会社ができる遡ること20年ほど前のイギリス経済の背景からご紹介します。

17世紀まで、ヨーロッパでは基本的に貨幣と言えば金貨や銀貨のことを指しました。

 

金や銀はどこの国や地域に行っても価値があるもので、大幅に暴落することもないので資産を変換する素材としてはうってつけでした。

ですが物理的に重たいので、そんなに常日頃持ち歩くこともできませんでした。

そこでイギリスの銀行家たちは、金銀を顧客から預かって、その預かり証を発行することを始めました。

その預かり証を持っていれば、好きな時に金銀と交換できます。

1690年代には預かり証の残高は、国内の通貨供給量を上回るようになりました。

これがイギリスにおける紙幣の始まりです。

 

1694年、財政難に苦しむイギリス政府が財源調達法という法案を成立させました。

これは、120万ポンドを8%の利子で政府に融資する代わりに、紙幣(捺印手形)の発行権がある株式会社の銀行の設立を認めるというものです。

設立された銀行はBOE(バンク・オブ・イングランド)と言いました。

現在のイングランド銀行(イギリスの中央銀行)です。

株式募集では1272人の投資家が集まり、彼らが金貨や銀貨で投資をし、それを基にしてBOEは紙幣を発行し、政府に融資されました。

BOEの株価はすぐに20%も上昇していきました。

このように1690年代のイギリスでは、一種の株式ブームが起きていましたが、結局財政難を克服できなかったイギリス政府により貨幣改鋳(コインの金銀率を減らす)がなされると、人々は株を売って良貨を買い求め、それをタンス預金してしいました。

一気に金の流れは動きを止め、株式ブームは終焉を迎えてしまいました。

 

南海会社設立

そんな背景があり、南海会社は1711年に作られました。

この南海会社は普通の会社と違って、変わった作られ方がされました。

それは国の借金をそのまま引き受けて、それを完済するために作られた会社というものです。

イギリス政府は、ヨーロッパとの領土拡大のために戦争をしまくっていたので、借金まみれでびっくりするくらいお金がありませんでした。

 

「国の危機的な財政状況を救う・・・・」

 

隣国との戦争も多く、お金がない政府を救うためハーレーさんというとっても偉い人が、「イギリス政府の借金を代わりのすべて返します!」と債務の肩代わりする南海会社を作り、法律文書に精通していたブラントさんを社長にしたのが始まりでした。

南海会社が国の債務の一部を引き受け、スペイン領西インド諸島との奴隷貿易の独占権を得てその収益で債務を弁済するというものでした。

今でいう国営事業を民営化して財政赤字を減らすというものです。

 

 

ブラントさん率いる南海会社は政府の借金を肩代わりにする代わりに、

 

  • 政府から引き受けた借金の5~6%を毎年受け取る権利
  • 当時ヨーロッパで大流行であった「南米との独占貿易権」

 

を政府から付与されていました。

 

しかし、独占貿易権はあっても、実際に貿易できていたわけでもなく、事業としてなんとか生き残っていくことで精一杯で、とてもじゃないけど国の借金を返していくことなんてできない状況でした。

 

*ここで、フランスのミシシッピ計画の時にも出てきた「南米大陸との独占貿易権」について補足をします。

当時、ブラジルを除く南米大陸の権利をめぐって、スペイン、イギリス、フランスで外交問題に発展していていました。

当時は奴隷貿易が盛んで、メキシコ、ペルーなどから金属が発掘されていることが発覚してから、財政難に苦しんでいたヨーロッパの強国はなんとかしてこの南米大陸の利権を確保しようと頑張っていました。

 

いつまでたっても南海会社の収益が「政府からもらう借金の利息だけ」だという状態だったので、議会からネチネチ言われて、そろそろブラント社長の首を切るか?という話まで出てきてしまっていました。そんなこんなで追いつめられたブラント社長は一発逆転を夢見て「国民に宝くじの販売」をやってみました。

 

その結果・・・・

 

これが大当たりしました!南海会社は凄い利益を出すことに成功しました!

 

※ちなみに宝くじは紀元前からギリシアで汚職を防ぐために、偉い人をクジで決めたのが起源です。

15世紀頃からヨーロッパを中心に、政府が財政難に陥るたびに宝くじの販売が行われてきました。

日本では江戸時代にお寺で販売されたのが初めてだと言われています。

宝くじは当時からどの国でも賛否両論があって、法律で禁止されていた国も多かったです。

 

その頃、フランスでは前回ご紹介したローさんによるミシシッピ計画が終焉を迎えていましたが、通貨であった金貨や銀貨を銀行券と交換してそれを正式なお金とし、フランス政府の借金を、ミシシッピ会社の株と国民と交換するというド派手なことを成功させたことで、ローさんとフランスはヨーロッパにおいて一躍注目の的になっていました。

 

ブラント社長は考えました。

 

ちょうど手元に宝くじを売って儲けたお金もある・・・

フランスでジョン・ローって言う人が、なんか凄いことやって景気が凄いことになっている・・・

フランスはライバル国だし自分だけ置いて行かれるのもまずい・・・

何よりこれだけ頑張ってきたんだから俺だってもっとお金がほしい!!

 

ということでブラント社長は、自分の手でローさんがフランスでやっていることを再現してやろうと決意しました。

 

国債の引き受け

1720年1月、ブラントさんはイギリス政府に国民に発行してしまった国債を南海会社にすべて引き受けてもらうという南海会社側の提案を議会で審議させることに成功しました。

 

そして、1720年1月21日、南海会社は市中にある3250万ポンドの国債を全て引き受け南海会社の株に変えると発表しました。

 

※ちなみに18世紀イギリスのGDPは約6300万ポンド。

当時職人さんの年収が約40ポンドです。この記事では当時の物価から推測とイメージしやすいように、1ポンド5万円と仮定と試算します。

 

南海会社が政府の借金をさらに引き受けることで政府の借金は実質ゼロになり、政府は南海会社に引き受けてもらった借金は返す必要はありません。

その代わりに政府から新たに肩代わりした借金の5%を毎年政府から金利として貰います。

 

同時に現在国にお金を貸している国債保有者に対して、国債と南海会社株の交換を持ちかけるという、フランスのローさんのミシシッピ計画と同じ「国債と株を交換して国の借金の帳消し」をしようと目論みました。

これは今でいうデッドエクイティスワップというもので、南海会社は何とその権利を中央銀行であるBOEとの入札競争に勝って獲得してしまいました。

 

一部の議員の中には、「国債100ポンド分に対して、南海会社株1枚と交換」という風に、国債→南海会社株に交換するレートを固定しようと主張する人がいました。

そうしないと、そもそも国債と南海会社株を交換できません。

 

ただブラント社長はどうしても南海の株を固定のレートではなく、好きなレートで国債と株を交換したいと考えていました。

 

株の額面とは例えば、「南海会社の額面100ポンドの株」を持つということは株を発行した時点での「南海会社が持つ資産の100ポンド分を保有する証明書」を持つということになります。

 

ブラント社長は、「南海会社株の額面と国債の額面で交換レートを固定」するのではなく、「南海会社株の時価と国債の額面」を交換レートにしたいと考えました。

そうすれば、仮に南海会社の株価が200ポンドに上がれば、「国債額面100ポンド分×2枚と交換」となり、南海会社1枚で多くの国債を手に入れることができ、政府から貰える金利も増えることになります。

額面100ポンドの南海会社株で200ポンドの国債が手に入るため、100ポンドの利益になり、これでさらに額面100ポンドの南海会社株の発行ができて、それをすぐに売れば200ポンドの利益が上がることになります。

200ポンド儲かったら、今度は額面100ポンドの南海会社株を2枚発行して・・・を繰り返せば、あっという間に億万長者になれる!とブラント社長は考えました。

 

一部の議員が、ブラント社長の考えた南海法が危険だということを見抜き、反対していたにも関わらず、結局政府は南海会社に自由に国債と株の交換レートを決定させる権利を与えてしまいました。

というのも、ブラント社長が大蔵大臣をはじめ、イギリスの王であるジョージ1世、国王の愛人、政府や議会の用心に南海会社の株価が上がるととっても儲かるストックオプションを賄賂として配りまくっていたからです。

 

こうしてブラント社長は、南海会社の株価が上がれば上がるほど、自分たちと株を持っている政府の偉い人が得する仕組みを見事作ることに成功しました。南海会社の国債購入について議会審議に入ると、

 

どこからともなく南米との貿易で金銀がたっぷり入ってくる・・・

メキシコ人がイギリスの綿織物をたっぷり買い付けに来ていて南海会社にすさまじい利益をもたらしている・・・

 

なんていう身も蓋もない噂が国民の間で飛び交うようになりました。

当時イギリスはスペインと交戦中であったため、南海会社が南米に利権を持つ可能性から期待値が高まり株価が急騰しました。

折しもミシシッピバブルが弾けてマネーが次なる投資先を求めていたところで、南海会社に資金がどんどん流入しました。

当時のイギリスは一種の株式ブームになっており、実体が何もなくても「株式会社」という名前がついていれば、株価が飛ぶように売れるという異常事態を起こしていました。

 

そんな盛り上がりの中行われていた議会審議の結果、なんと南海会社は額面で3150万ポンド分の株を発行と販売する許可を得てしまいました。

(一株額面100ポンドなので、合計で31万5000株まで発行可能)

 

注意してほしいのが、南海会社の本来の「事業」であった奴隷貿易はとっくに頓挫しているため、新株を発行しても収益源がありません。

そこで新株の発行価格を水増しして負債(引き受けた国の負債)との差額を利益に計上し、それで見せかけの利益を積み上げてさらに新株の発行価格を水増しすることにしたのです。

これであとは株価を上げて、上げて、上げまくるとブラント社長がついに本気を出しました。

 

「何が何でも株価を上げること上げることだけが唯一利益を上げる道」

「混乱すればするほど良い。自分たちが何をしているか人々に理解できないようにしなければならない。そうしておけば当社の計画に人々が乗ってくるようになる。計画の実行が当社の事業である。」

 

ブラントさんはこんなことを何千回も繰り返し言っていました。

政府も、株価が上がるととっても儲かるストックオプションで買収したし、「あとは煽って、煽って、煽りまくって株価を上げるだけ・・・」と考えるブラントさんを止めることができる人はもうイギリス国内にはいませんでした。

そのために手段は選ばず、南海会社の株価を上げるために、ローさんがミシシッピ計画でやったように

 

  • 株のローン販売
  • 株担保融資

 

も行いました。

 

南海会社が国債の額面を南海会社の株価で交換するという南海法が成立した1710年4月7日のわずか一週間後、4月14日に直後に全4回に渡る1回目の現金での南海会社株の売り出しが行われました。

額面100ポンドの南海会社株が時価1株300ポンドで、わずか1時間で20万ポンド分売れて完売になってしまいました。

ちなみに国債と南海会社株を交換するという話だったのに、なぜか先に現金で株が販売されました。

 

これはブラント社長が意図的に仕組んだことで、国債と株を交換する前に先に現金で売りに出すことで、投資家に南海会社株が持つ価値を一切計算させずとにかく買わせることを狙ってやったことでした。

 

(ちなみに、南海会社の収入は国債引受でもらえる政府からの金利収入のみで、この時点で引受はまだしていませんでした)

 

国債と株を交換するという話なのに、例えば国債100万円分と南海会社株がどれくらい交換できるのかが一切発表されていませんでした。

それにも関わらず、投資家は南海会社株に飛びつきました。

 

政府の偉い人は南海会社株のストックオプションで買収されていましたし、ジョージ王子ですら南海会社株のストックオプションの割当を受けていたくらいで、とにかく政府の偉い人から一般人も巻き込んで南海フィーバーは凄くなっていました。

 

2週間後の4月30日に行われた2回目の現金での株売り出しは、配当率を10%に引き上げると発表しました。

ちなみにブラント社長は、この配当を上げるという発表の直前に、配当が上がると儲かる金融商品を大量に買っていました。

(正確には南海会社株配当のコールオプション。簡単に言うと南海会社株の配当が上がるか下がるか?を予想する金融商品です)あまりに露骨な手口すぎて、今だったら完全に犯罪です。

 

ブラントさんの煽りの結果、5月末には550ポンド、6月の頭にはなんと890ポンドに株価が上がっていました。

ただ、この直後に640ポンドに急落。ブラントは焦って部下に南海会社株の買い支えを命令しました。

こんなことをしながら、6月15日に3回目の現金募集を実施し、発行価格はなんと1000ポンドで総額5000万ポンドが売り切れしました。

8月22日の4回目の株売り出しには、再び額面100円の南海会社株が1株1000ポンドで公募しました。

1億ポンド分の株が発行され即売り切れされました。

 

南海会社の株価が上がる

南海会社株を担保にお金を貸してあげる

配当をあげると「約束」だけしてその貸したお金で南海会社株を買ってもらう

南海会社の株価はうなぎのぼり

 

という具合に、「南海株価が上がるほどお金が借りやすくなる。

借りたお金でまた株を買う」という状態になってしまったため、南海会社の株価はたったの半年で10倍に跳ね上がり、国中で南海フィーバー状態になってしまいました。

南海会社株を担保に借りたお金でみんなが買っていたのは、実は南海会社株だけではありませんでした。

 

同時期に起きていたフランスのミシシッピ計画とは違いは、イギリスでは泡沫会社と呼ばれる、ワケの分からない実態のない会社が乱立と南海フィーバーに乗っかるという事態が起こりました。

ちなみにバブルの語源となったこの泡沫会社のシャボン玉っぷりは本当に凄かったからです。

 

あまりに意味不明でワケの分からない会社が作られ、新聞などで株の購入募集が凄まじいほど行われ、みんながそれを買ったので、後々、南海会社×泡沫会社のコラボレーションで「南海泡沫事件」と呼ばれるようになりました。

 

誰でも簡単に南海会社株を担保にお金を借りることができたので、そのお金を狙ってわけのわからない実体のないペーパーカンパニーが乱立し、新聞広告で毎日株を買う人を募集するのが大流行りしていました。

あまりに株価が上がるのと株価が上がった分だけお金が借りられるので、みんな南海会社株にだけではなく、泡沫会社にも飛びつきました。

 

1710年の1年間に190社が設立と株式募集がされましたが、1年間で生き残ったのはたったの4社で、ほとんどが実績も実体もない会社でした。

 

※ちなみに、泡沫会社というのはある特定の「泡沫会社」という名前の会社があったわけではなく、当時乱立していた「泡のようで実体のないペーパーカンパニー」が乱立しており、それら全体を指して泡沫会社と呼んでいました。

 

バブルの語源

「バブル」という言葉の語源となったのが、この泡沫会社の乱立です。

泡沫会社の乱立はあまりに凄まじく、株を買ってはそのまま逃げられて一文無しになる人が後を絶ちませんでした。

特に悪質で有名な泡沫会社に夢中で投資する人々を風刺した「泡沫会社トランプ」なんていうのも発売されました。

その泡沫会社トランプの一部の会社をご紹介します。

 

*ピュックル機械会社

業務内容:丸や四角の砲弾や砲丸を発射させ、戦争に大きな革命を起こそうという会社

 

*イングランドの鋼と真鍮の会社

業務内容:鋼と真鍮を使って何かをする会社

 

*「大いに利益になるのだが、それが何であるか誰も知らない」会社

業務内容:???

 

その他、「髪の取引をする会社」、「水銀を純金属へ変換する会社」、「永久運動を開発する会社」、「海水から金を取得する会社」、「こどもの未来を保証する会社」、「海賊から襲撃を受けない船を建造する会社」・・・etcなどなど、夢と希望に満ちた会社がたくさんありました。

 

こんな感じで会社名と絵柄、それに風刺コメントの書かれた泡沫トランプは大人気でした。ペーパーカンパニーである南海会社だけではなく、南海会社の株価が上がることで、こんな会社でも能天気な国民は喜んで全財産とさらにお金を借りて投資をしていきました。

そんなこんなで、イギリスでは一般国民だけではなく、貧民層を含むすべての国民が南海会社の株に夢中になっていきました。

 

国王ジョージ一世、皇太子、公爵から男爵まで100人以上の貴族や300人を超える下院議員3回目の南海会社株の売り出しで株を買っていました。

株価が上がるにつれて、不動産ブームが起きて地価が跳ね上がっていきました。

とにかくイギリス中が長年の憧れだった家や馬車を買ったりと、とにかく贅沢をしまくりました。セントジェームス宮殿では国王の誕生にパーティで100ケースを超える赤ワインが消費されて、5000ポンド(約2500万円)の宝石を散りばめたドレスを着て現れる侯爵夫人もいるほど贅沢していました。

 

株の売買をするエクスチェンジ通りという場所周辺では、居酒屋や喫茶店、更には食堂に至るまで連日お客さんでいっぱいで、信じられないような騒ぎになっていました。

しかし、ブラント社長は泡沫会社があまりに多くなってきたので、とっても焦っていました。なにせ泡沫会社の数が増えていくと、自分の会社の株を買ってくれる人がそれだけ減るからです。

 

「なんとしても、この大フィーバー確変状態を独り占めしたい!!!」

 

6月9日、そんな熱い想いから、ブラントはすでに南海会社株で買収済みの政府の偉い人たちに

 

  • 会社の設立の議会による認可の義務付け
  • 既存の会社の本業以外の事業多角化の禁止

 

を義務付けた「泡沫会社法」を作ることを迫りました。

 

これでいろいろな事業をして業績を上げているライバル会社は困ることになるし、訳の分からないペーパーカンパニーを一掃して、南海会社だけが人気が出るはずだと考えたのです。

 

政府も、国民から泡沫会社の詐欺に関して文句の声が上がっていたことに加え、政府内の偉い人がみんな南海会社株を持っていたのでこれに反対する人はほとんどいませんでした。

 

最初は、ブラント社長の思い通りには行かず、泡沫会社の株価は上がり続けました。

それを見て怒ったブラント社長は法務大臣に、実際に事業の多角化をしていた泡沫会社を法で裁くようにして貰いました。

同時に、ブラント社長は南海会社株のその年の配当を10%→30%に引き上げ、来年以降は配当をなんと年5割を保証すると発表しました。

 

しかしこれをきっかけに・・・なぜか南海会社株は大暴落してしまいました。

 

つい6月までは、(たったの6ヶ月間で)8倍にもなった1050ポンドだった株価は、8月にはあっという間に850ポンドに下落してしまいました。

 



さらに政府が、事業を多角化した泡沫会社を実際に訴えるという令状が発表されると、株式市場は大パニックになりました。

 

南海会社だけではなく、泡沫会社の株価も軒並み暴落・・・

不動産事業に事業拡大をしていた水道会社は305ポンド→30ポンドに・・・

当時の保険会社大手2社の株価は75%大暴落・・・・

 

南海会社株を担保に借りて泡沫会社の株を買っていた人がとっても多かったので、泡沫会社の株価が下がるとその損失の穴埋めのために、南海会社の株も売らざるを得なくなって、大パニックになりました。

 

ブラント社長が、南海会社の株価を上げるためにしたことが、皮肉にも南海会社の株価を下げることになってしまいました。

5割配当保証という、南海会社の大型配当アップの発表も何の効果もなく、どんどん株価は下がっていきました。

 

さらにブラント社長が株を売り抜けたとの噂が飛び交い、9月中旬になると800ポンドまで下がっていた南海会社株価は400ポンドまで下落しました。

南海会社株を担保にした融資の担保評価として600ポンドを基準にしていた銀行が多かったので、株を担保に融資をしていた銀行がドンドン破綻し始めました。

その結果9月末に南海会社株は200ポンドを割り込む水準に落ち込み、たったの1カ月で75%も下落してしまいました。

 

この頃には、南海会社の経営陣も株価を維持することを完全に諦めて、持っていた南海会社株を売却し始めました。

当時BOEは政府から公的信用を維持するため南海会社の債務を肩代わりするように圧力を受けていました。

しかし、南海会社の債務を肩代わりすると自分たちが潰れてしまうのでこれを拒否しました。

これをきっかけに国中のいたるところで信用がなくなり、お金を貸してくれる人が現れなくなって、金利が20%を超えるといった事態まで生じました。

 

ここで、当時の南海泡沫バブルの知る人達の言葉をご紹介します。

 

「正直言って、連中がもう少し長く、ペテンを続けていられると思った。・・・いずれ破綻が来るとは予想していたが、考えていたより2ヶ月早かった」

※当時の下院議員ジェームズ・ポープの証言

 

「ほとんどの人がいつかは破綻すると予想していましたが、だれも、それに備えていませんでした。ちょうど死と同じで、夜盗のように忍び寄って来るとは、だれも考えていませんでした。」

※アレグサンダー・ポープ主教への手紙

 

「幽霊のように全員黒死病にかかっているかのようだった。人々がここまで意気消沈しているように見えたことはなかったからだ。私は死ぬまで彼らの顔を忘れないだろう。」

1720年10月1日アップルジャーナル紙

 

この南海会社株の暴落で損失や借金の苦で自殺する人も多く、破産者が大量発生し、イギリス中の人がどん底に落ちてしまいました。

そんな中、ブラント社長をはじめとする南海会社の経営陣は(通算合計4回にわたって行われた)株価がピークの4回目の南海会社株売り出しの時に、こっそり株を売り始めて自分たちだけは莫大な利益を確定していました。

 

ここで、この泡沫会社や南海会社の株価暴落で大損をした当時の有名人を一部紹介します。

 

南海バブルでとっても損をして凹んだ有名人達

BOE取締役 ジェスタスさん

214万7000ポンドの負債を抱え破産(約1073.5億円)

 

シャンドス侯爵

売りどきを逃し、70万ボンドの含み益を失う(約350億円)

 

天才物理学者 アイザック・ニュートン先生

ある日、ニュートン先生の耳に南海会社の騒動が耳に届きました。

ニュートン先生は「これはおかしい。さしたる根拠もない会社の株がこんなに値上がりするのは解せない」と考え、投機には参加しませんでした。

しかし、そんなニュートン先生でさえ、周りの友人知人が大儲けしているのを見て、とうとう株を買ってしまったのです。

株価が上がり切らないうちに売却して利益を出した後、株価頂点で買い戻してしまった結果、2万ポンドの損失(約10億円)

※これは、当時ニュートン先生の仕事であった造幣局監事の基本給2000ポンドに換算すると、約10年分の金額。

『天体の動きなら計算できるが、人々の狂気までは計算できなかった』との名言を残します。

 

「金持ちになる方法」という記事を、雑誌に執筆した謎の男性ユースタスさん

金額は不明だが、巨額の財産を失い自殺

 

南海会社の株価が暴落した時のイギリス国民の怒りは、イギリスの歴史上見たことがないほど激しかったのです。

特に南海会社の経営陣への怒りは凄まじく、国民を煽って株価を上げる裏で、自分たちだけは暴落前に株を売っていっぱい儲かっていたことに対してみんな怒り狂っていました。

 

当然、南海会社株のストックオプションを貰ってひっそり儲けていた政治家の人たちにも怒りの矛先は向きました。

国民はウェストミンスターという王様が住む宮殿や、イングランド国教の一番大きな教会ところに集まって暴徒と化し、南海経営陣や政治家が得た利益を没収するよう暴れ回りました。

 

議会では不正や腐敗、賄賂について激しく議論され、取引の実態を調査するための秘密委員会が組織されました。

南海会社の帳簿を調べてみると、経営陣が南海法設立のために政治家に贈った賄賂は、架空の南海会社株を含め125万4500ポンドにものぼる額でした。

 

その結果、南海の取締役でもあった下院議員は除名、大蔵大臣をはじめとする何人もの南海会社取締役が、泣く子も黙る刑務所のロンドン塔に送られました。

さらに南海会社の取締役が南海会社株で儲けた利益を没収する南海被害者法も可決しました。

 

この処分の結果、ブラント社長は資産18万3000ポンド(約91.5億円)のうち、5000ポンド(2.5億円)を残し没収されました。

他にも経営陣なども含め、合計200万ポンド(100億円)以上が政府によって没収されました。

 

1721年、イギリスはバブル防止法を制定、企業に新たに株式公開することを禁止しました。また「株取引の悪名高い慣行を将来防止することによって信用の確立を強化する法案」という、とっても長い法案も議員から提出されました。

この時は可決されなかったもののこの15年後、イギリス議会はこの法案を基に「空売り、オプションと先物取引を禁止するサー・ジョン・バーナード法」として可決しました。

この法律は19世紀半ばまで効力を発揮しました。

議会での南海会社の責任追及をきっかけに、

 

「株式会社が一般国民に株を売って資金調達する場合は、公正な第三者による会計記録の評価が不可欠である」

 

と認知されるようになり、間も無く、公認会計士制度及び会計監査制度が誕生することになりました。

イギリスはこの結果、株式に対する偏見が生まれ、泡沫会社禁止法によって会社制度の発達が遅れる原因となりますが、銀行は信用を失わなかったため銀行預金残高は増え続け、資本蓄積がされていきます。

 

あまりに多くの人々が南海会社や泡沫会社が作り出した「黄金の夢」に陶酔、イギリス中が傷ついたこの「南海泡沫事件」をきっかけに、後に世界中の保守的な人間が、人々が同じ過ちを犯しそうになるたびに、それを「バブル」と呼び、警鐘を鳴らすようになりました。


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