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チューリップバブル


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世界三大バブルの一つと言われている17世紀のオランダで起きたチューリップバブルをご存知でしょうか?

 

17世紀のオランダ黄金時代にチューリップ球根の価格が異常に高騰し、突然に下降した期間です。

チューリップバブルのピーク時であった1637年には、1個当たり熟練した職人の年収の10倍以上の価格で販売されるチューリップ球根もありました。

現在の価値で言うとチューリップの球根1個が医者、弁護士、大手企業のサラリーマンの年収の10倍以上の値段です。

 

では、一体何があってこのチューリップの球根がここまでの価格になったのでしょうか?そして、なぜバブルは弾けたのでしょうか?

まずはオランダの歴史から紐解いていきます。

 

17世紀から遡ること100年前の16世紀。

1530年にネーデルラント(現在のオランダ)のアムステルダムに設立されたアムステルダム取引所では商品、為替、株式、債券そして海上保険などあらゆる種類の金融商品や金融サービスが売買されていました。

取引の主流は先物取引となり、穀物や香料、砂糖や銅、硝石などの先物取引が行われていました。

 

しかし、その頃のヨーロッパの政治は混沌していて、カトリック教会の権力と腐敗への抵抗が、各地で起こり始めていました。

ネーデルラントはスペインの植民地で、カトリック教派とカルバン主義者で分かれていました。

 

スペインのカルロス王子はカルバン主義者を徹底的に弾圧し、カルバン主義の要人を次々に処刑していきました。

1568年、これに立ち向かう形で、ネーデルラントのカルバン主義者を中心にスペインと独立戦争が勃発しました。

スペインとの戦いは長きにわたり、独立戦争開始から41年後の1609年、ついに彼らは独立を果たし、オランダ国が誕生することになります。

この戦争のことを後に人々は、オランダ独立戦争と呼びました。

 

長きに渡る独立戦争を終え、繁栄を謳歌することで彼らは間もなくオランダの黄金期と呼ばれる時代へと歩み始めました。

スペインとの独立戦争に勝利した17世紀はじめのオランダは、商人が世界各地に進出し、ヨーロッパで最も経済が発達した国となっていました。

経済の活性化に伴って、株価や住宅価格が上昇し、だんだん豊かな生活を送ることができるようになりました。

所得水準がヨーロッパで最高となり、消費や投資が活発化していました。

株式会社に加え、銀行、複式簿記、為替手形、そして証券市場などが発達し商業資本主義の基礎を築き上げてきました。

 

そんな中、ある大使と植物学者がオランダ全土を巻き込むとんでもない事件の引き金を起こすことになったのです。

 

チューリップバブルの引き金を起こした人

オスマン帝国(現在のトルコ)で神聖ヨーロッパ帝国の大使だったオージェ・ギスラン・ド・ブスベックさん

フランドル(現在のオランダ南部、ベルギー西部、フランス北部)の植物学者のカロルス・クルシウスさん

 

当時、フェルディナント1世(神聖ローマ皇帝)によりオスマン帝国のスルターンに派遣されていたブスベックさんはある時、綺麗なチューリップの眼球を見つけました。

 

「これは凄い! 是非、ヨーロッパへ持ち帰ろう」

 

ブスベックさんは1554年、オスマン帝国からウィーンに、チューリップの球根と種子を初めて贈りました。

チューリップ球根はすぐに、ウィーンからアウクスブルク、アントウェルペンおよびアムステルダムに広まりました。

 

そして、当時フランドルの植物学者クルシウスさんにもチューリップの眼球を贈りました。

当時、クルシウスさんは医者としては無名でした。

しかし、植物学者としての才能はあり、1593年にライデン大学の教授に就任され、ライデン大学植物園というオランダで元も古い植物園の設立に尽力し、様々な植物を研究していました。  

 

もちろん、ブスベックさんに貰ったチューリップの眼球を栽培し、品種改良などをして研究していたのですが、クルシウスさんはある時、チューリップがネーデルラントの厳しい環境にも耐えうることを発見しました。

オランダでは、その地形や気候により花の栽培に適していたのです。

 

ブスベックさんから貰ったチューリップの眼球が初めて作った植物園の場所がチューリップの栽培にとって最適だったというなんとも恐ろしい偶然が起こったのです。

 

そして、間もなくクルシウスさんは園芸に対して最も権威ある学者となったのです。

当時の貴族や富裕層にとってチューリップは観たこともない珍しい花でした。

そんな中、お金に目が眩んだクルシウスさんは貴族や商人に栽培した眼球を売り始め、お金持ちの間で、チューリップが植物観賞として流行していきました。

そして、間もなく貴族や植物学者の庭園でチューリップの栽培が本格的に開始され、チューリップの人気が出始めました。

当時、ヨーロッパで一番の資産家がフッガー家も自分の庭園にチューリップを植えていました。

 

その様な経緯があり、チューリップはオランダ人にとって富の象徴とされ、球根の値段が上がっていきました。

始めは貴族や商人など一部の収集家だけで取引されていましたが、1634年あたりから一般個人も値上がり益を狙って、チューリップ市場に参入するようになりました。

珍しい品種が高値で取引されるようになり、1636年から1637年にかけて投機熱は最高潮に達しました。

 

最高ランクのチューリップ「センペル・アウグストゥス」は、当時のオランダの首都であったアムステルダムで小さな家が買えるほどの額、1200ギルダーで売買されていました。

当時の1ギルダーは現在の価値でいうと10.28ユーロと同等と言われています。

 

 

センペル・アウグストゥスの当時の水彩画

 

 

※当時の大工さんの平均年収が250ギルダー。最高級のチューリップ「センペル・アウグストゥス」には17世紀初めの時点で一般国民の平均年収の約5年もの価格がついたことになります。

 

すでに価格は現実からかけ離れたものとなり、貴重品種以外の品種も高値で取引されるようになりました。

チューリップの栽培は、短期間で育てるのは難しい花でしたが、他の植物にはない鮮烈な色味あふれる花弁を持ち、当時ヨーロッパにおいて知られていたどの花とも異なっていた。

赤や黄色の普通のチューリップが、翌年に突然白と赤が複雑に混ざり合った模様になったり、炎状や羽状の模様になったりすることがありました。

この現象は後々の研究でアブラムシが球根に運ぶウイルスが原因で起こることが分かりましたが、当時の人々はこれを突然変異と呼びました。

 

しかし、当時の科学では、ウイルス感染のメカニズムは解明されておらず、チューリップが自らの意思で模様を変えているとさえ信じていた人々もいて、偶発的な突然変異種の発生に頼っていたと言われています。

つまり、模様のあるチューリップの球根を買っても、次に模様がついた花が咲くとは限らない状態だったそうです。

ただウイルス感染によるものなので、突然変異したチューリップは普通のチューリップよりも弱くなり、栽培しにくくなるという問題もありました。

弱るほど色合いが淡く、多彩になって美しくなり、この儚さと偶然が合わさって、美しい模様のあるチューリップが生まれました。

 

この様な理由からお金持ちの資産家は、こぞって珍しい模様のチューリップを飾って、自慢していました。

また、突然変異したチューリップは指紋のように一つもおなじものはできなかったのです。

 

さらに、一つの球根から突然変異した花が咲くと、その球根からは突然変異した花が咲き続けたり、その球根から取れた子球根も親球根と同じ特徴を持っていました。

ただ、突然変異したチューリップはウイルスで弱まっているため、突然した球根から球根を取るのはとても難しく、希少性がありました。

 

さらに、球根の状態ではどんな花の模様がつくかが分からないというドキドキワクワク要素もありました。

(球根につくウイルスで模様が変わるため、前もってわからないので)

一度何かの拍子で綺麗に突然変異すれば、誰でも大金を稼げる可能性があったのです。

つまり、普通の球根を植えても、一般的な人の年収5年分の価格がついている基調で最高級の「センペル・アウグストゥス」が咲く可能性があったということです。

 

品種によっては1個の球根で、巨額の富を掴む可能性があったため、模様のついた花が咲くかどうかわからないというリスクがあるにもかかわらず、多くの人が球根を買い求めるようになりました。

短時間で増やすのは難しいですが、チューリップを育てるのは手間もかからず簡単だったので、誰でも育てることができました。

 

そこそこのお金が必要になる株を買うことができない人でも、球根くらいなら誰でも売買することができたので、球根を転売して一儲けしようと企む普通の一般市民もチューリップの売買をするようになって、チューリップ市場ができるようになりました。

 

独立を果たしたオランダは貿易によって富を増やしていました。

アムステルダムの商人たちは、収益性の高いオランダ東インド会社の貿易の中心となっており、その貿易では1回の航海で400%の利益を上げていました。

 

結果として、チューリップは誰もが欲しがる贅沢品となり、品種が豊富になりました。

貴重な品種の球根は0.5グラム単位で重さが計られて、当時大流行りしていた東インド会社の株式と変わらないほどオランダ中で一般的に売買されるものとなっていました。

 

1630年代オランダに住む人たちは、独立戦争も落ち着いて、30年戦争(ヨーロッパを巻き込んだカトリック派VSプロテスタント派の宗教戦争)にも巻き込まれませんでした。

ということもあって、比較的のんびり暮らしていました。

それに加えてオランダ織物が貿易ブームとなって、景気がすごく良かったのです。

 

1630年、パリやフランス北部で球根の価格が上がっているとの噂が立ち始めることで、一般市民もチューリップ球根を求めて、チューリップ市場に現れるようになりました。

1633年か1635年にかけて、オランダ国内で疫病が流行って、職人や労働者の賃金がかなり上がっていました。

大工さん、配管工さん、農民さん、紡績屋さん、靴屋さん、パン屋さん・・・などがそこそこの大金を得ることも珍しくなかったのです。

 

そういったお金で、ごく普通の一般人が球根を買おうとチューリップ市場に足を運び、チューリップの球根に財産をつぎ込んでいったのです。

アマチュア球根収集家や大商人など裕福な人は、一般人が球根を買いあさって球根価格がすごい勢いで上りだすと、姿を見せなくなりました。

 

大商人は、当時ヨーロッパ中を夢中にしていた東インド会社などの株に投資をしていて、あくまでもチューリップは趣味として割り切っていて、価格急騰を見て収集を止めていました。

 

チューリップ市場ははじめ、(買いたい人と売りたい人がお互いに探しあって売買するという)相対(あいたい)取引で行われていました。

しかし、人数が増えるに従って、居酒屋さんで、お酒を飲みながらまとめて球根の入札が行われるようになっていきました。

居酒屋さんはこれを商売のチャンスとして、手数料として3ギルダーを酒代として徴収してすごく儲けていました。

 

チューリップで儲けた人は、そのお金で馬車や馬を買って富を楽しんでいました。

しかし、その頃には球根は実際に受け渡しはされなくなっていました。

というのも、球根ができるのに時間がかかるので、今花壇の中に眠っている次の春に手に入る球根を売ったり買ったりする約束して取引をしていました。

 

つまり、今でいう先物取引です!

 

売り手はある品種のある重量の球根を渡すと約束する。

買い手はその球根を受け取る権利を持ち、代金は*手形で決済。

球根が手に入る春までの間に、球根を受け取る権利を他人に時価で売る

 

という手口では儲けていました。

*手形=お金を〇〇という期日に支払いますよ〜という約束の証明書

 

実際の会話はこんな感じだったかもしれません。笑

 

1636年のある日のオランダの日常

大工さん「ねえ、チューリップの球根、売ってくださいな」

チューリップ農家「今年収穫された分は全部売れちまったな。来年の収穫まで待っておくれ」

大工さん「えっ、そんなんだ。困ったな・・・」

チューリップ農家「そんなに球根がほしいのなら、来年収穫できる予定の球根を今、3ギルダーで売ってやっても良いぞ」

大工さん「えっ、良いの?」

チューリップ農家「ああ、良いぞ。ただ、代金の行き部は先に手付金と証拠金としてもらっておくよ。1ギルターは今ちょうだいね」

大工さん「うん、分かった」

 

大工さん1ギルターをチューリップ農家に渡す

 

チューリップ農家「残りの2ギルターは、来年球根を渡す時に払ってね。逃げたらどうなるか分かっているね」

大工さん「うん、僕ちゃんと払うよ」

チューリップ農家「はい、これ2ギルター分の支払手形と球根の引換書」

 

チューリップ農家2ギルター分の支払手形と球根の引換書を大工さんに渡す。

 

大工さん「うん、ありがとう」

 

~1週間後

大工さん「ねえねえ、君、来年買える球根の権利まだ手に入ってないんだって?」

パン屋「うん、探しているんだけどどこも売り切れで・・・」

大工さん「そうなんだ。僕、実は来年買える球根の権利ゲットしたから、君がどうしても欲しいって言うなら譲ってあげても良いよ」

パン屋 「ええ、良いの?」

大工さん「君の頼みなら、良いよ。はいこれ、来年8ギルターで買う権利貰ったんだ。チューリップ農家さんに手付金として、6ギルター払ったから、残りの2ギルターは来年の春球根を受け取る時、君が払ってね(嘘だよー。本当は3ギルターだよー)」

 

大工さん2ギルター分の支払手形と球根の引換書をパン屋さんに渡す。

 

パン屋さん「了解!ありがとう!」

大工さん「どういたしまして(5ギルターの儲け!さぁ、今日も居酒屋で酒でも飲むか。笑)」

 

居酒屋さんなどで行われた先物取引などが主体となり、次第にすぐに球根売買のほとんどは売買する球根の実態がないものになりました。

球根を先物で売る約束をしていたのが農家ならまだ良い方で、実際はチューリップなんて手元になく球根を手に入れる方法がないのに、先物として球根を売ったりする人が多く、めちゃくちゃでした。

 

何しろ球根を売っても、実際に球根を引き渡すのが来年の春だから、それまでになんとかすればいいやとみんな考えていたからです。

 

球根を先物で売った人は球根を渡せないし、買った方も手形で決済したものの、実際に球根を買うお金はなかったので、手形は不渡りになるしかないものがほとんどでした。

高額なチューリップの先物契約の頭金のために家や土地を格安で売りに出す人も多かったチューリップ価格はそれでも上がっていたので、それにつられるように生活品や、土地や住宅、馬や馬車などの値段も上がりました。

 

では、実際にどれくらいチューリップの球根価格が上がっていったのかを見ていきたいと思います。

 

オランダ人の平均年収が150〜400ギルダー

小さなタウンハウスは300ギルダー

最高級の絵画で1000ギルダー以下

かなり大きな庭や馬車置き場の付いている家の価格の相場が約1万ギルダー

 

・ゴーダという品種0.2g:20→225ギルダー

 

・大元帥という品種0.5g:95→900ギルダー

 

・何の変哲もない黄色い花がさくクルーネン種:約453g:20ギルダー→数週間で1200ギルダー(数週間で月給で買えたものが年収の約5倍)

 

・福王という球根:2500〜3000ギルダー。(ちなみに2500ギルダーで、小麦27トン、ライ麦50トン、バター2トン、チーズ2トンが買うことができた)

 

・センペル・アウグストゥス:10,000ギルダー

 

センペル・アウグストゥスは熱気の間もあいかわらず球根の帝王ぶりでした。チューリップ熱狂が始まる前の1625年には、2400ギルダーだったのが、熱狂が始まる1633年には5500ギルダー、ピーク時には10000ギルダーの価格がつきました。

これはピーク時には、当時のオランダ人の年収のおよそ30~60年分の値段がついていたことになります。

ちなみに、センペル・アウグストゥスの球根1個の価格は、首都であるアムステルダムの運河沿いで最も高額な家よりも高かったと記録されています。

チューリップの球根1個に対し、12エーカー(5ヘクタール)の土地との交換が申し出られたという一説もあります。

 

あまりの熱気の凄まじさを見て、居酒屋に入り浸っていたチューリップ投機家も

 

「こんなことは後2、3年しか続かないだろう。それだけ時間があれば十分だ。売り手よりも買い手の方が多くなっても不思議ではないが、そうなれば熱気は一気に冷え込むだろう」

と言っていました。

 

高まる熱狂の中、有り得そうにない面白いエピソードが幾つか生まれました。

ここでは2つのエピソードを紹介します。

 

エピソードその1

ある船乗りが商人のチューリップ球根をタマネギと間違えて、食べるために持って行きました。

商人とその家族は船乗りを追いかけましたが、見つけたときには「自分の船の船乗り全員に一年間大盤振る舞いできるほど」高価な朝食を食べている最中でした。

その船乗りは球根を食べた事により投獄されました。

 

エピソードその2

ある植物学者が、オランダ人富豪の家の温室で球根を見つけました。

チューリップを知らなかった学者は、実験しようと球根の皮を剥き始めました。

半分の大きさにまで剥いて球根を半分に切り分けて断面図を研究していました。

オランダ人富豪はそれを見るなり大激怒しました。

学者が4つに切り分けた球根は、時価で4000ギルダーする球根でした。

学者は裁判で有罪判決を受け、そのまま投獄されました。

 

そんな熱中している中、1637年2月3日ついにチューリップ市場は突然暴落しました。

暴落の理由らしい理由はなかったものの、春になると受け渡しの期日が来ることで、その前に売ろうとしたところ、買いが入らず、売りが売りを呼ぶ展開となったのではないかと言われています。

 

 

それをきっかけに、

 

「隣町のハールレムでチューリップを買う人がいなくなった」

 

という噂が流れ、その翌日、チューリップは価格がいくらでも売れなくなりました。

その頃、ハールレムはペストが大流行していて、そのさなかにあったことが原因である可能性もあります。

 

球根の価格がピーク時の100分の1以下にまで下がり、オランダの経済が大混乱に陥りました。

チューリップの先物価格も暴落し、たったの6週間で10分の1に下がったチューリップもありました。

 

 

チューリップ保有者は自分の購入金額の1/4でも買い手を見つけることができず、オランダ中がパニックに陥りました。

 

チューリップ球根の代金の手形は次から次へと債務不履行になり、園芸を職業にする人たちは投機家に支払いを求めたが、誰も代金を回収することはできませんでした。

 

数千人規模で支払いきれない債務者がいたといわれたオランダのチューリップバブルですが、このチューリップバブルの場合、人々は球根を先物取引で売買していました。

 

ですので、春になる前に、この「約束」が反故されても、球根を売ろうと育てていた農家の人は、球根が手元に残る訳なので、被害は少なかったと言えます(ボロ儲けができなくなっただけです)。

問題は、転売目的で先物取引をしていた人たちで、債務不履行の連鎖で、ほとんどの人が代金を回収できなかったと言われています。

お金がそこまでない中流層〜下流層の人は、自宅を担保に入れたり家財を売り払ったりして球根を買っていたので、一瞬のうちに無一文になってしまいました。

 

チューリップバブルが弾けた年、人々は裁判所に駆け込んだため、債務不履行関連の訟訴が続きました。

パニックに陥ったチューリップ投機家はオランダ政府に助けを求めました。

政府は、球根の先物買い契約をした者は10%の手数料を支払えば契約解除できると宣言しました。

すべての当事者が満足いくようにこの状況を解決しようとする試みがなされましたが、失敗に終わりました。

一説によると、バブル崩壊時点で最後に球根を掴まされていた投機家については、裁判官はこれをある種の賭博による負債だと解釈し、法律上強制できないと判断し、代金の支払いを命じる裁判所は無かったと言われています。

 

チューリップバブルが崩壊した直後、オランダの花屋等の自治ギルドは、1636年11月30日以降、春の現金市場の再開までの間に締結された先物取引契約はすべてオプション取引契約と解釈されるべきことを告知し、この決定はオランダ議会により事後承認されていました。

これは単に先物取引の買い手のチューリップの購入義務を免除し、単に売り手に対し売買代金の一定金額の少額の支払い義務のみを負わせることが狙いでした。

この議会令以前、チューリップの売買契約(現代の金融においては先物取引契約として知られる)の買い手は、球根を買う法律上の義務を負っていました。

 

この議会令は、仮に市場価値が下がった場合には、買い手は契約金額全額を支払うのではなく、球根の受け取りを放棄して違約金のみを支払いでできるよう、これらの契約の性質を変更しました。

議会令によるこの変更は、現代の用語法に従うと、先物取引契約がオプション契約に変更されたということを意味です。

この議会令は、売買契約の買い手に対し、契約金額のわずか3.5%(または約30分の1)の支払いにより契約を無効とすることを認めたものです。

こうして、投機家は価格が高騰しても安心して、契約を行うことができたのです。

例えば、投資家がチューリップの球根1個を100ギルダーで購入する契約を締結したとして、もし球根の価格が100ギルダーを上回れば、投機家は差額を利得として得ることができ、もし価格が上昇しなければ、投機家はわずか3.5ギルダーで契約を無効とできました。

このように、名目上の契約金額が100ギルダーの契約も、実際には投資家にとって3.5ギルダー以上の支出を強いるものではありませんでした。

しかし、1937年2月上旬、契約金額がピークに達したころに、オランダの当局が介入し、これらの契約に基づく取引を中止してしまったのです。

 

やっと混乱が収まったのは翌年の1638年5月です。政府が合意価格の3.5%の支払いでチューリップの売買契約を破棄できる(前述の議会令に戻した)と宣言し、混乱は収束しました。

 

このチューリップバブルはオランダ中が大混乱になりましたが、後にフランスやイギリスで人の手によって起これたミシシッピバブルや南海泡沫バブルとは違い、経済の中心であった大商人などはチューリップ熱気が始まった時点で手を引いていたので、経済危機を引き起こすようなことはなりませんでした。

 

バブルが弾けて混乱が収束すると、チューリップの球根は、以前の球根の値段に戻って取引されるようになり、熱気が始まると同時に姿を消したチューリップアマチュア収集家が現れて、また珍しい品種の球根を安値で買うようになりました。

 

チューリップ熱狂の結果、ごく一部が金持ちになり、その他大勢が無一文になり、社会階層の間の関係が不穏になりました。

その後、オランダではしばらくの間、チューリップは愚かさの象徴としてオランダ国民から嫌われ避けられるようになってしまいました。

チューリップ熱狂前は、美しさと、高級であったチューリップを買うよりも、チューリップの花束を題材とした絵画の方が安かったこともあり、画家にとっては馴染み深い題材でした。

しかし、熱狂以後は、チューリップは虚栄、贅沢、邪悪、無益の象徴として画家の心をつかんで、違う意味で数多くの絵画の題材とされました。

 

数年経つと「無窮の皇帝」など、ごく一部の高価な球根は熱狂が始まる前の水準まで価格が戻りました。しかし、ごく普通の球根が以前の価格になることはついに最後までありませんでした。

当時オランダでのチューリップの高騰を見て、チューリップ商人はイギリスでも熱を煽ろうとしたが、上手くいきませんでした。

1720年、イギリスで南海泡沫事件が起こるまでの約1世紀もの間、当時の世界の中心、ヨーロッパにおいてチューリップはバブルという意味で使われることになりました。

 

オランダでのチューリップの価格は今でもどの国よりも高いです。

チューリップバブル崩壊による実態経済への影響はほとんどなかったといわれています。

 

このためチューリップの熱狂が本当にあったのかどうか疑問視する見方もありますが、皮肉なことにこれをきっかけにオランダのチューリップが世界的に広く認識され、オランダでの花産業が発達していったことも事実です。


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